翻訳と辞書
Words near each other
・ 浜田知明 (野球)
・ 浜田祥裕
・ 浜田秀哉
・ 浜田空襲
・ 浜田競馬
・ 浜田競馬場
・ 浜田範子
・ 浜田篤則
・ 浜田篤哉
・ 浜田純一
浜田経重
・ 浜田絵梨
・ 浜田線
・ 浜田美栄
・ 浜田美穂
・ 浜田義一郎
・ 浜田義文
・ 浜田義雄
・ 浜田翔子
・ 浜田翔子 (タレント)


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

浜田経重 : ミニ英和和英辞書
浜田経重[はまだ つねしげ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [はま]
 【名詞】 1. beach 2. seashore 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [けい, たていと]
 (n) (weaving) warp
: [おも]
  1. (adj-na,n) main 2. principal 3. important

浜田経重 : ウィキペディア日本語版
浜田経重[はまだ つねしげ]
浜田 経重(はまだ つねしげ、天文3年(1534年) - 慶長16年2月20日1611年4月3日))は薩摩国島津氏家臣。別名は重門。通称は民部左衛門。法号は栄臨(永林とも)。浜田重好の三男。子は浜田重昌、娘(押川公近室)。
一生の間に戦場に赴く事39度、上げた首級40余人、討ち捨て15、6人、敵地へ忍び入る事13度に及ぶという功臣であった。元々は村田経定の附衆中として功を為していたが、その武功の多さに感心した島津義久が召し出し直臣とした。
天正15年(1587年豊臣秀吉による九州征伐の際、その武功を聞いた秀吉は経重を自身の前に召しだして、金房兵衛尉政次作の槍と知行五百石を与えている。しかしその一年ほど後、五百石は義久へと返上し、自らは元々の百石取りに甘んじた。
慶長16年に義久が死去すると、これに殉死する。法名は「鏡山栄臨居士」。その際、以下の二編の辞世を残している。
*「二つなき 命を君に 奉る こころのうちは すめる月かな」
*「武士(もののふ)の 取伝へたる 梓弓 君にひかるる 後の世までも」
尚、後醍院宗重の嫡子である高橋頼次は、武功多く秀吉も名を知る経重の清貧ぶりを見て、自身を恥ずかしく思い、また島津で立身することは叶わないと感じ、出奔し池田輝政に仕えたとの逸話がある。

島津家中には「薩摩の百石は よその二千石」とのがあったが、この逸話がその元となった。
== 参考文献 ==

*『本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会)
*『島津中興記』(青潮社・1979年8月)



抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「浜田経重」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.