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浜田 靖一(はまだ やすかず、1955年〈昭和30年〉10月21日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(8期)、自民党幹事長代理。 自民党国会対策委員長(第53代)、防衛大臣(第6代)、防衛庁副長官(第1次小泉第1次改造内閣)、防衛政務次官(小渕内閣)を歴任。 元衆議院議員の浜田幸一を父に持つ。 == 来歴・人物 == 千葉県富津市生まれ。千葉県立木更津高等学校を卒業後、米国ヒルズデールカレッジ(:en:Hillsdale College)に留学し、その後専修大学経営学部経営学科を卒業した。大学卒業後は父・浜田幸一が親しい関係にあった渡辺美智雄の事務所に就職し、1980年(昭和55年)、鈴木善幸内閣で渡辺が大蔵大臣に就任した際は、秘書官を務めた。1984年(昭和59年)からは父の秘書を務めた。 1993年(平成5年)父の引退に伴い、第40回衆議院議員総選挙に旧千葉3区から自由民主党公認で出馬し、初当選(当選同期に安倍晋三・田中眞紀子・熊代昭彦・岸田文雄・塩崎恭久・野田聖子・山岡賢次・江崎鉄磨・高市早苗など)。小選挙区比例代表並立制導入後初めて実施された1996年(平成8年)の第41回衆議院議員総選挙には千葉12区から出馬し、再選。千葉12区は中村正三郎元法務大臣の地盤でもあったことから、2000年(平成12年)の第42回衆議院議員総選挙ではコスタリカ方式により中村が千葉12区から出馬し、浜田は比例南関東ブロックで3選。1998年(平成10年)、小渕内閣で防衛政務次官に就任。 2003年(平成15年)に発足した第1次小泉第1次改造内閣で、石破茂防衛庁長官の下で防衛庁副長官を務める。同年の第43回衆議院議員総選挙では再び千葉12区から出馬し、民主党の青木愛を3万票超の差で下した(青木は比例復活)。2005年(平成17年)の第44回衆議院議員総選挙は本来ならば中村が千葉12区、浜田が比例で出馬するはずだったが、中村は小泉純一郎首相が推進する郵政民営化法案の採決に体調不良を理由に欠席したため党からの公認が得られない可能性が高まり、総選挙の直前に不出馬・引退を表明。そのため浜田が千葉12区から出馬し、青木に比例復活すら許さず大勝した。同年、自民党千葉県連会長に就任。 2008年(平成20年)、麻生内閣で防衛大臣に任命され初入閣。同年10月、「日本が侵略国家だったというのは濡れ衣だ」と主張する論文を発表した田母神俊雄航空幕僚長を、「政府見解とは異なる意見である」という理由で更迭した。翌2009年(平成21年)4月5日、北朝鮮によるミサイル発射実験が発生。これに先立ち、3月に北朝鮮が「人工衛星」と称して長距離弾道ミサイルを発射した場合、「わが国の領土の上を飛ぶようなものを打ち上げるのは極めて不愉快だし、あってはならない。もしもの場合を考えれば対処するのは当然だ」と発言し、破壊措置命令を発令する考えを表明した。在任中に海賊対処法を成立させた。 同年8月の第45回衆議院議員総選挙では千葉12区で6選したが、民主党の中後淳に比例復活を許した〔中後は2012年、民主党を離党し新党きづなの結党に参加。〕。翌9月、麻生内閣総辞職により防衛大臣を退任。 2011年(平成23年)10月、谷垣禎一総裁の下、国会対策委員長代理に就任(国会対策委員長は自身と当選同期の岸田文雄)。2012年(平成24年)の自由民主党総裁選挙では、同じ防衛大臣経験者の石破茂を支持したが、石破は浜田と当選同期の安倍晋三に敗れた。総裁選後、安倍総裁の下、国会対策委員長代理から昇格する形で自由民主党国会対策委員長に就任した。同年12月、自民党幹事長代理に就任。2013年(平成25年)1月31日、無派閥連絡会の初会合に参加した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「浜田靖一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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