|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 浜 : [はま] 【名詞】 1. beach 2. seashore ・ 黒 : [くろ] 【名詞】 1. (1) black 2. (2) dark ・ 崎 : [みさき] (n) cape (on coast) ・ 村 : [むら] 【名詞】 1. village
浜黒崎村(はまくろさきむら)は、かつて富山県上新川郡にあった村である。 ==概要== 浜黒崎村は1889年(明治22年)4月1日、町村制施行に伴いそれまでの上新川郡浜黒崎村、高来村、針原横越村、平榎村、野田村、日方江村、日影村、針木村を統合して誕生し、1940年(昭和15年)9月1日に富山市に統合された上新川郡の村であって、現在の浜黒崎小学校校区、即ち富山市浜黒崎、横越、平榎、高来、野田、日方江、針日、古志町の区域に相当する。 富山湾に面する北方の海岸には越中舞子とも称される古志の松原を擁しており〔富山県知事官房統計課、『富山県誌要』、昭和3年1月、富山県〕、1921年(大正10年)には旅館「楽天閣」が開業し、1926年(大正15年)には海水浴客増加のため北陸本線上に浜黒崎仮停車場が設置され、1931年(昭和6年)には浜黒崎村軍人分会が海浜テント村を開いて今日の浜黒崎キャンプ場の基を築き、1963年(昭和38年)には富山ユースホステルが開設されるなど、浜黒崎は観光によってもその名が知られていた〔。富山県の天然記念物に指定されている〔http://www2.tkc.pref.toyama.jp/general/stdydtl.aspx?stdycd=00083511 (富山県観光公式サイトとやま観光ナビホームページ)〕浜黒崎の松並木の内には親鸞の腰掛けたと伝えられる「親鸞上人腰掛けの松」や、慶長6年(1601年)加賀藩主前田利長が命じて植えた松が残っており、中には樹幹周囲6尺以上2丈に達するものもあって〔富山県、『富山県概観』、昭和11年4月、富山県〕、白砂青松の海浜は日本の白砂青松100選の一つに選ばれており、またここより眺める立山の姿を賞して富山市より立山あおぐ特等席に指定されている〔http://www.ccis-toyama.or.jp/toyama/kankou/view.html (富山商工会議所ホームページ)〕。 浜黒崎という地名は本村の海岸には常願寺川上流に火山たる立山のあるため磁鉄鉱の多く〔http://webun.jp/item/1099181 (北日本新聞平成26年4月16日)〕、ために浜が黒くなって見えたことがその由来であるという〔。西側には大広田村との境界である村川が流れ、大字日方江には轡田豊後守の大村城の出城と伝えられる日方江城の遺構や、上杉謙信が大村城攻略の際の陣地となすため築いたとされる「そうけ塚」が残る。本村該当区域中央の古志町造成は昭和40年代より始まったが〔、その西方を流れる琵琶川命名の所以は、源義経都落ちの折にその形状の琵琶に似ていることから遥かなる都を思ひ出して感興に耽ったという古事である。東側の大字である横越、平榎は暴れ川である常願寺川に面し、たびたび水害を被った地でもあった。また横越には上杉謙信の先鋒を打破ったと伝えられる水窪氏の邸跡〔、平榎には1504年(永正元年)築城と伝える平榎城跡〔がある〔http://www2.wagmap.jp/toyama/top/select.asp?dtp=22 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「浜黒崎村」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|