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燈明堂(とうみょうどう)は〔名称については、「浦賀燈明堂」ないしは「浦賀燈明堂跡」とするものもあるが、浦賀という地名を付けずに燈明堂と呼ばれている例が多く、かつ全国各地に燈明堂が存在し、知名度に顕著な差は見られないため、燈明堂 (横須賀市)を記事名とした〕、神奈川県横須賀市の浦賀港入り口にあたる燈明崎の先端に、江戸時代に築造された和式灯台である〔横須賀市(2010)p.432〕。 == 概要 == 天正18年(1590年)の、徳川家康の江戸城入城後、江戸を中心とした水運は急速な発展を見せるようになった。水運の発展に伴い、東京湾入り口に近く、浦賀水道に面する入江である浦賀は港として大きく発展し、浦賀港に入港する船の安全を図る必要に迫られた。また浦賀水道を通行する船の増大は、夜間に浦賀水道を通過する船の安全策を講ずる必要性も高まってきた〔横須賀市人文博物館・自然博物館(1989)pp.1-6 〕。 慶安元年(1648年)、江戸幕府は浦賀港入り口の岬に和式灯台である燈明堂を建設した〔横須賀市(2010)p.432〕。燈明堂は篝火ではなく堂内で油を燃やすことによって明かりを得ており、堂内には夜間は燈台守が常駐していた〔横須賀市教育委員会(1989)p.34〕。当時は夜間に明かりがほとんどなかったこともあって、燈明堂の明かりは対岸の房総半島からも確認できたと言われている〔燈明堂跡・横須賀市ホームページ 〕。建設当初は江戸幕府が燈明堂の修復費用を負担し、当時の東浦賀村と浦賀港の干鰯問屋が灯火の費用を負担していたが、元禄5年(1692年)以降〔燈明堂の維持管理費が浦賀の干鰯問屋の負担となったのは、元禄4年(1691年)以降とする文献もある。ここでは横須賀市人文博物館・自然博物館(1989)ならびに燈明堂跡・横須賀市ホームページ の記述に従い、元禄5年(1692年)以降とする。〕は浦賀港の干鰯問屋が修復費用も捻出するようになった〔横須賀市人文博物館・自然博物館(1989)pp.9-10〕。 海に突き出た岬上にある燈明堂は、台風などの暴風や大地震による津波によって建物や石垣が崩されることがあった。しかし東京湾を通行する船の安全を守る役割を果たしていた燈明堂は、建物が破損してもただちに仮設の燈明堂を建設し、明かりが絶えないように努力がなされた〔横須賀市人文博物館・自然博物館(1989)p.10〕。 明治2年(1869年)、日本初の洋式灯台である観音埼灯台が建設されたことによって、燈明堂はその使命を終え、明治5年(1872年)に廃止となった〔横須賀市教育委員会(1989)pp.8-9〕。廃止後も明治27年(1894年)ないし明治28年(1895年)頃まで燈明堂の建物は残っていたが、その後崩壊して石垣のみが残されていた〔横須賀市教育委員会(1989)p.9〕。 浦賀の燈明堂は昭和43年(1968年)に横須賀市の史跡に指定された。昭和62年(1987年)には燈明堂とその周辺の発掘が行なわれ、翌昭和63年(1988年)には燈明堂がある岬への遊歩道の整備と、燈明堂の西側にあったと伝えられていた高札場の発掘が実施された〔横須賀市(2010)p.432〕。そして文献調査と発掘調査を踏まえ、昭和63年(1988年)に横須賀市は燈明堂の復元に取り掛かり、平成元年(1989年)3月に復元工事は完成し、復元された燈明堂とその周辺は現在は公園として整備されている〔横須賀市教育委員会(1989)pp.13-14、横須賀市(2010)p.432〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「燈明堂 (横須賀市)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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