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浪速のジョー : ミニ英和和英辞書
浪速のジョー[なにわ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

浪速 : [なにわ]
 (n) Naniwa (former name for Osaka region)
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

浪速のジョー ( リダイレクト:辰吉丈一郎 ) : ウィキペディア日本語版
辰吉丈一郎[たつよしじょういちろう]

(たつよし じょういちろう、1970年5月15日 - )は、日本のプロボクサー岡山県倉敷市出身。大阪帝拳ジム所属。第50代日本バンタム級、第18代・第24代WBC世界バンタム級王者、。愛称は浪速のジョー。自身が幼年期にいじめられっ子であった過去を持つ。血液型はB型。入場曲は『死亡遊戯』メインテーマ(なお、1996年中に出場した2試合のみ、友人の元光GENJI諸星和己から提供されたオリジナルのテーマ曲「JOEのテーマ」を使用したこともあった)。
「吉」の正確な表記は「」(「土」の下に「口」、つちよし)である。また「丈」の正確な表記は「𠀋」であり、右上に点がある。〔UnicodeCJK統合漢字拡張Bでは U+20BB7「(土の下に口)」。〕〔UnicodeCJK統合漢字拡張Bでは U+2000B「𠀋(丈の右上に点)」〕
== 来歴 ==
生後間もなく両親が離婚。その後、ボクシングファンであった父・粂二(くめじ)の男手一つで育てられ、幼少時よりボクシングを仕込まれた。中学校時代の担任教諭の勧めで、中学卒業と同時にボクサーを目指して大阪帝拳ジムに入門した。
粂二は辰吉にボクシング(喧嘩)の稽古をつけていた時に、構える手の高さは胸の前あたりの方が、相手全体を見渡したり攻撃をかわしたりしやすく、また、喧嘩の相手をつかんだり凶器を奪ったりしやすいと教えた。辰吉の無意識にガードを下げる癖はそこに由来すると考えられる。辰吉自身の解釈は、喧嘩では相手がオーソドックスの場合に右足で蹴ってくる場合が多く、左手を下げておくことで蹴りを払い、右手でパンチを繰り出すことができるからだと映画「BOXER JOE」で語っている。
なお、この時期(要註釈=どの時期か不明)の辰吉は、サウナや立ち食いうどん屋、かまぼこ屋などでバイトをしながらボクシングに打ち込んでいた。
1987年、17歳で全日本社会人選手権バンタム級優勝。ソウルオリンピックの有力候補だったが、体調不良により予選で敗退した。この後、諸事情によりジムを離れて半ば放浪同然の生活を送ったが、後の専属トレーナー大久保淳一が主催するジムでのトレーニングを経て大阪帝拳に復帰。アマで数試合をこなした後、プロ転向する。この頃から辰吉の試合記事は関西地区のスポーツ新聞に写真入りで報じられており、その才能は早くから注目の的だった。アマチュア通算成績は19戦18勝 (18KO・RSC) 1敗。
1989年9月29日、プロデビュー(6回戦)。韓国の国内ランカー崔相勉を2回KOに降す。辰吉の前評判は高く、日本人ランカー全てにオファーを出したが拒否された。
1990年6月28日、3戦目。WBCインターナショナルバンタム級王者サムエル・デュラン(フィリピン)とノンタイトル戦を行い、7回KO勝ち。
同年9月11日、4戦目で日本王座初挑戦。日本バンタム級王者岡部繁を4回KOに降し、王座獲得に成功。4戦目での日本王座獲得はジェームス・キャラハン友伸ナプニ平仲明信と並ぶ最短タイ記録である(2013年に井上尚弥も並ぶ)。当時は安易な世界挑戦が多かったので「世界挑戦は最低でも国内または東洋王座を獲得してから」という暗黙の規定がなされていた。その規定に従い、先ずは日本王座を獲得。試合後のインタビューでは「この試合は通過点」と世界王座へのこだわりを見せた。
1991年2月17日、6戦目。世界ランカーアブラハム・トーレスベネズエラ)とノンタイトル10回戦を行い、引き分け。トーレスのジャブに最後まで苦しみ、「辰吉が負けていた」との声が出るほどの大苦戦(トーレスもリング上で寝転がり判定に抗議)。当初、この試合の後、国内最短となる7戦目で世界挑戦を予定していた辰吉陣営だったが、トーレス戦での苦戦を目の当たりにし、もう1試合ノンタイトル戦をはさむこととなる。
1991年5月19日、1階級下(ジュニアバンタム級=現・スーパーフライ級)の世界ランカーレイ・パショネスフィリピン)と対戦。アウトボックスで相手を翻弄し、10回判定勝ち。辰吉のフットワークとジャブを駆使して相手を寄せつけずにアウトボクシングした試合を評価する声が多かったが、当の本人はKOできなかった悔しさからリング上で涙をこぼす。
1991年9月19日、世界初挑戦。WBC世界バンタム級王者グレグ・リチャードソン米国)に挑む。アマで275戦、プロで33戦のキャリアを誇る王者相手に終始優位に試合を進め、10回終了TKO勝ち。具志堅用高(9戦)を抜いて国内最短新記録(当時)となる8戦目で世界王座奪取に成功した(後に名城信男も並ぶが、現在は田中恒成が5戦に更新)。平成デビューのボクサーとして初の世界タイトル獲得でもある。しかし同年12月、左眼の異常を訴え、大阪市内の病院で検査。結果、「網膜裂孔」の診断を受け、そのまま入院・手術。そのため、翌1992年2月6日に予定されていた初防衛戦(対李勇勲=韓国)は中止となり、長期間の休養を強いられることとなる。
1992年9月17日、王座奪取から丸1年後の初防衛戦。休養中にWBC世界バンタム級暫定王座に就いたビクトル・ラバナレスメキシコ)と統一戦を戦うが、9回TKOに敗れ王座陥落。プロ初黒星を喫した。
その後、1戦をはさみ、1993年7月22日、世界再挑戦。当初、3月にラバナレスを降してWBC世界バンタム級王座を獲得した辺丁一(韓国)に挑むことになっていたが、辺が5月の初防衛戦で左手を骨折。そのため、同級暫定王座決定戦としてラバナレスと再戦。フルラウンドにわたる死闘の末、僅差ながら判定勝ち。10か月前の雪辱を果たすと同時に、世界王座返り咲きを果たした。その後、11月25日に正規王者・辺との統一戦が組まれたが、それに向けてトレーニングを重ねていた9月、再び左眼の異常を訴える。検査の結果、今度は網膜剥離が判明。日本ボクシングコミッション (JBC) ルールにより試合ができない身となり、事実上引退の危機に(暫定王座も返上)。
手術は無事に成功。退院後、現役続行の意思を表明し、その道を模索することとなる。その結果、帝拳プロモーション会長・本田明彦等の尽力も有り、1994年7月2日、JBC管轄外のハワイで復帰戦を強行。4月にWBC世界バンタム級王座に挑戦したホセフィノ・スアレス(メキシコ)を3回KOに降す。この勝利でWBCから返上していた暫定王座を再び与えられた。JBCも特例で辰吉の現役続行を許可。
現役続行が許可されたことで、同年12月4日、名古屋市総合体育館レインボーホール(現・日本ガイシホール)でWBC世界バンタム級正規王者薬師寺保栄との統一戦が実現(薬師寺は前年12月、辰吉の代役という形で辺に挑戦し、12回判定勝ち。王座獲得に成功し、これまで2度の防衛に成功している)。この試合は彼のキャリアの中でも最大の注目を集め、圧倒的優位を予想されたが、フルラウンドにわたる死闘の末、12回判定負けを喫し暫定王座から陥落。現役続行の条件として「統一戦に敗れた場合は即座に引退」が掲げられていたため、再度引退の危機に立たされる。この時の敗因は後のインタビューによると、1ラウンド序盤に放った左ストレートが薬師寺の頭部付近に当たった際、骨折。以降なかなか左が出なくなり、セコンドから左を出すように言われても「骨折れて出んのじゃボケ!」と思う程の状態で試合を続行した為という。
しかし、ここでも引退を拒否。1995年、米国・ラスベガスでノンタイトル戦2試合を強行。遂にJBCも折れ、辰吉は世界戦に限り国内で試合を行えることとなった(その後、「世界戦に準ずる試合」も追加)。
1996年3月3日、2階級制覇を目指し、WBC世界ジュニアフェザー級(現・スーパーバンタム級)王者ダニエル・サラゴサメキシコ)に挑戦。しかし、初回からほぼ一方的に打ち込まれ、11回負傷TKO負け。翌1997年4月14日、再度サラゴサに挑むがここでも12回判定で完敗。「もはや世界王座返り咲きは無理」という声も聞かれるようになった。
同年11月22日、通算5度目の世界挑戦。元のバンタム級に戻し、WBC世界同級王者のシリモンコン・ナコントンパークビュータイ)に挑む。5回に王者からダウンを奪ったものの、6回以降は王者の「捨て身」とも言える反撃であわや逆転KO負けというところまで追い詰められる。しかし、7回、左ボディブローで2度目のダウンを奪う。辛くも立ち上がった王者を連打で追撃し、レフェリーストップ。この瞬間、約3年ぶりの世界王座返り咲きを果たした。その後、2度の王座防衛に成功。
1998年12月29日、3度目の防衛戦。元WBA世界バンタム級王者でもあるウィラポン・ナコンルアンプロモーション(タイ)と対戦。序盤こそ互角の展開だったが、回が進むにつれ次第に挑戦者がペースアップ。そして、迎えた6回、挑戦者の左をまともに浴び、プロ2戦目以来のダウン。辛くも立ち上がったものの、挑戦者の激しい追撃に襲われる。そして、最後は挑戦者の右ストレートを左のこめかみに受け、仰向けに崩れ落ちた。ノーカウントで試合をストップされ、失神KO。3度目の世界王座陥落。
王座陥落後の1999年1月、父が他界。
1999年8月29日、王者・挑戦者の立場を入れ替えてのウィラポンとの再戦。開始当初から一方的に打ち込まれ、最後は7回、レフェリーストップ(同時にセコンドからも「棄権」を示すタオルが投げ入れられた)によるTKO負けで雪辱ならず。試合後、「普通のお父っつあんに戻ります」と現役引退を表明した。
しかし、日増しに現役続行への思いが強まり、後に引退表明を撤回。復帰へ向けて始動するも、周囲の反対もあり、再起まで3年以上もの期間を要する。
2002年12月15日、実に3年4か月ぶりの復帰戦。元WBAフライ級王者のセーン・ソー・プルンチット(タイ)を相手に復帰戦を行い、7回TKO勝ちを収めた。
2003年9月26日、復帰第2戦でフリオ・セサール・アビラ(メキシコ)と対戦し、10回判定勝ちを収めるも、その後は負傷した左脚の回復が思わしくなく、再び長いブランクに入った。
その後、所属する大阪帝拳ジムから試合を組む意思がないことを再三にわたって告げられたものの、本人は引退を拒否。あくまで現役続行にこだわり続ける。
2008年9月26日、直近の試合から5年が経過。JBCの規定により「引退選手」扱いとなり、国内では試合を行うことができなくなった。しかし、本人は「海外に渡ってでも試合をする」とあくまで現役続行にこだわりを見せる。
そして、同年10月26日、タイ・バンコクラジャダムナン・スタジアムで復帰戦を強行。地元の新鋭パランチャイ・チュワタナに2回TKO勝ちを収め、5年ぶりの再起を果たしたものの、この試合に関してJBCは試合から1週間後の11月2日、タイ・チュワタナジムのアンモ会長と対談し、JBCライセンス保持者以外の試合禁止を要請。
12月、タイ国内ランキングでバンタム級1位にランクイン。同28日、ライセンス失効後初めてJBCと対談。JBC側は大阪帝拳ジムが国外での試合も禁止したいとの意向を持っていると説明をした他、WBCと提携している米国の医療機関の専門的な検査を受けるように提案。それに対し、辰吉は「5年も試合をしてなかったので、今はどんどん試合をしてコンディションを上げていくことが大事。検査の意味は分かるけど、(引退を)決断することはできない」とあくまで現役続行にこだわる姿勢を見せた。
2009年3月8日、前戦と同じラジャダムナン・スタジアムに於いて復帰第2戦。スーパーバンタム級のタイ国内ランキング1位サーカイ・ジョッキージム(19歳/11戦10勝 (5KO) 1敗)と対戦するも、3回にダウンを奪われた末の7回TKO負け。世界戦以外の試合での初黒星(通算7敗目)を喫した。試合終了後、辰吉は「俺はまだ終わっとらん」とあくまで現役に拘り、今後もリングに上がり続けることを表明しているが、この試合以降、次戦開催の目処は立っていない。
2012年6月20日、WBA・WBC世界ミニマム級王座統一戦(井岡一翔 対 八重樫東戦)で18年ぶりに、かつてのライバルであった薬師寺保栄と公の場で顔を合わせることとなった。
2014年現在でも辰吉本人は現役に拘り、トレーニングを欠かしていないと言う〔いまだ現役“浪速のジョー”が過去を語った!そして「辰吉の子がボクシングやる、世界チャンピオンになる、当たり前や」 週刊プレイボーイ 2014年52号〕。2015年には次男・辰吉寿以輝が大阪帝拳ジムからプロボクサーとしてデビューした〔ボクシング辰吉次男がKOデビュー「すごく楽しかった」 日本経済新聞 2015年4月16日閲覧〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「辰吉丈一郎」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Joichiro Tatsuyoshi 」があります。




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