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宇喜多 一蕙(うきた いっけい、寛政7年(1795年) - 安政6年11月14日(1859年12月7日))は、幕末に活躍した大和絵の絵師。宇喜多博文の子、母は上田氏。本姓は藤原、後に豊臣を称した。諱は公信、のち可為(よしため)。別称・主馬、内蔵允。一蕙斎、為牛、為仏子、谷神子、瑞草、香、画院生徒、昔男精舎などと号した。浮田一蕙と表記されることが多い。 == 略伝 == 戦国大名・宇喜多秀家の七世の孫と言う。京都出身。初め田中訥言に師事して7年間土佐派を学ぶ。訥言は『伴大納言絵巻』の模本を3本制作し。そのうちの1本を一蕙に与えたとされ、一蕙も師に忠実に仕えたという。訥言は晩年眼病を病み、失明を苦に自殺したとされ、こうした師の最期は一蕙にも強い衝撃を与えたと推測される。のちに土佐光孚にも学び、大和絵の古法を修めて一機軸を出した。画風は古典的題材を好み、師の田中訥言・冷泉為恭とともに復古大和絵派の巨匠として評価を得ている。ただし、一蕙と為恭は互いに面識はあったものの、信条の違いからか親交もたなかった。為恭の弟子・田中有美の回想によると、一蕙と為恭は私的な交わりではさほど不和には見えなかったが、一度画道の話となると互いに罵倒し合っていた。為恭は一蕙の絵には独創がなく、尽く古画の模倣であり、彩色が極めて稚拙だと評したことがあるという〔久保田満明 「宇喜多一蕙斎の研究(ニ)」『中央美術』1934年6月(京都市美術館監修 『京都画壇 江戸末・明治の画人たち』 アート社出版、1977年10月1日、p.233)〕。天保3年に高久隆古が、安政元年頃に若き富岡鉄斎が入門している。また和歌・書道にも通じ、京都で活躍した。 性格は豪快剛直な熱血漢と伝えられ、古典を学ぶ内に尊皇攘夷の思想に傾斜。嘉永6年(1853年)ペリー来航時には「神風夷艦を覆す図」を描いて幕府のペリーの対応を批判。安政元年(1854年)皇居造営に際しては「列所伝周宣姜」を描いて公武合体を風刺した。以後も絵画によって尊皇活動を展開し、大老・井伊直弼を陥れようと画策した信州松本の勤王家・山本貞一郎と近藤茂左衛門の兄弟らと、青蓮院宮尊融法親王や三条実万らに国策を説くなどした。また、いち早く情報を入手した和宮降嫁を思い止まらせようと、『婚怪草紙』を描き、中山忠能を通じてこれを献じた。 安政5年(1858年)安政の大獄により、子の可成とともに弾圧を受けて捕えられる(山本は自決)。後に江戸に送られて、翌安政6年(1859年)6月10日所払刑となり、帰京するも獄中に得た病で洛東田中で没した。享年65。墓は上京区の蓮金山華光寺。明治24年(1891年)従四位が送られ、東山霊園に記念碑が立てられた。 速筆による淡彩の作品が多い。弟子に語った「古画の精神を私心を混じえずに写し止めるよう努力すれば、自然に自己の特徴が生まれるようになる」というのが、一蕙の制作信条だった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宇喜多一ケイ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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