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浮野の戦い(うきののたたかい)は戦国時代、尾張国の浮野で起きた合戦のこと。「浮野合戦」とも言う。 == 概要 == 尾張下四郡を支配する清洲織田氏(織田大和守家)の守護代織田信友を萱津合戦で破り自刃させ、さらに弟信勝との内訌(稲生の戦い)に勝利した織田弾正忠家の織田信長は守護の斯波義銀をも追放し、尾張の支配を固めつつあったが、尾張上四郡を支配していた嫡流岩倉織田氏(織田伊勢守家)の守護代織田信安はいまだ健在であった。信安は織田信秀の妹を妻とし、若年の信長とも私的に交流があった人物であるが、長良川の戦いの際には隣国美濃斎藤義龍と手を組み信長を攻撃するなど、当時は敵対関係にあった。ところが、信安は長子の信賢を遠ざけ次子の信家を跡継ぎとしようとしたため、かえって信賢に追放されていた。 岩倉織田氏の内紛を見た信長は信賢との戦いに備え、父織田信秀死後独立勢力化していた犬山城主織田信清に対し、自分の姉・犬山殿を嫁がせ味方に組み入れた。 そして1558年(永禄元年)、信長は2,000の軍勢を率い出立し、浮野の地において3,000の軍勢を率いる信賢軍と交戦した。激戦が続いたが、信長の元へ信清の援軍1,000が到着すると形勢は一気に傾き、信賢軍は壊滅。1,200を超える死者を出し信賢は岩倉城へ敗走した。 翌年の1559年(永禄2年)、信長は軍勢を率い、信賢の本拠岩倉城を包囲。数ヶ月の篭城戦のあとに信賢は降伏した。のちに信長は信清も追放し、尾張統一を完成させた。信賢のその後は不明であるが、先に追放されていた信安はのちに赦免され総見寺の住職になっている。 また一説に、浮野の戦いが弘治3年(1557年)、岩倉落城は永禄元年(1558年)とする説もある〔高澤等『新・信長公記』によれば、永禄2年は信長が年初から2月にかけて上洛しており、岩倉城攻略は2-3ヶ月の攻囲の後、3月に落城したとする『信長公記』と齟齬が生じるとし、山内一豊の父山内盛豊の墓碑の年号から浮野の戦いを弘治3年(1557年)、岩倉落城を永禄元年(1558年)、上洛が永禄2年(1559年)との説を立てている。〕。 この浮野の戦いにおいて岩倉勢として活躍した林弥七郎は先年の稲生の戦いで戦死した林美作守の縁者と云われる。弥七郎は弓の名手であり、信長方の鉄砲の名手橋本一巴と組討ちを演じたが痛み分けとなり、また、前田利家の弟の佐脇良之の右肘を斬り、負傷させたものの最後は良之に討ち取られている。その他、岩倉勢には後に大名となる山内一豊の父の山内盛豊や堀尾吉晴の父の堀尾泰晴も参戦していた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「浮野の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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