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海の民(うみのたみ、)は、東地中海沿岸を放浪し、古代エジプトの第19王朝のメルエンプタハ5年、及び第20王朝のラムセス3世5年にエジプト領内への侵犯を試みた諸集団に使われる総称的呼称である。「海の民」という語は古代エジプトの記録では用いられておらず、1881年にガストン・マスペロによって命名され、後世一般化した。 == 歴史的記録 == === ペルイレルの戦い === 確実に海の民であるとはっきりする最初の言及は、メルエンプタハ(前1213年 - 前1204年)の時代の石碑〔カルナック神殿の:en:Great Karnak Inscriptionや「」からメルエンプタハと海の民との戦闘記録を知ることが出来る。〕に見える。メルエンプタハ5年(前1208年)の文書では、古代リビュア人及び海の民の連合軍の侵略に打ち克ち、6,000人の兵を殺し9,000人の捕虜を得たと書かれている(ペルイレルの戦い、)。 このときの海の民は、アカイワシャ人・トゥルシア人・ルッカ人・シェルデン人・シェケレシュ人の5つの集団から構成されていたことが記録されている。各集団は以下のように比定されている。 * アカイワシャ人 - ホメロスの伝えるところのアカイア人、すなわちミケーネ文明の担い手であったギリシア人 * トゥルシア人 - エトルリア人 * ルッカ人 - 小アジア南西部のリュキア人 * シェルデン人 - サルデーニャ人 * シェケレシュ人(Shekelesh) - シチリア人 なお、アカイアは紀元前15世紀から紀元前13世紀ごろにはオリエント世界ではアヒヤワとして知られた勢力で、ルッカ人やシェルデン人は海の民出現に先立つ紀元前1286年にはヒッタイトとエジプトが戦ったカデシュの戦いにおいて両陣営の傭兵として活動していたことが記録されている。また、紀元前14世紀中葉のアマルナ書簡でルッカ人の海賊、シェルデン人の王について言及したものが知られる。 つまり、海の民として連合してエジプトなどを侵攻した海上勢力は目新しいものであったが、その個々の構成要素となる集団は、それ以前から地中海世界或いはオリエント世界では知られていた存在であった。彼らの大規模な移動と侵略行為は、紀元前1400年ごろのミノア文明の崩壊から紀元前1120年ごろのドーリス人のギリシア定着と先住ギリシア人の小アジアへの移住定着に至る、約300年間に及ぶ東地中海世界の混乱の過程のひとつとして引き起こされたものと考えられている。研究者には、トロイア戦争におけるギリシア(アカイア)側の予言者モプソスの活動を海の民の集団の指導者と結び付けて考えている者もいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「海の民」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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