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海への進軍(うみへのしんぐん、Sherman's March to the sea through Georgia)は、アメリカ南北戦争終盤期の1864年11月15日から12月22日にかけて、北軍のウィリアム・シャーマン将軍がアメリカ南部連合(南軍)の早期降伏を目的として、南部連合の中心州であったジョージア州のアトランタから南東約400キロ先の港町サバナまでの主要部を、50キロから100キロ幅で行った破壊進撃を意味する。鉄道などの基盤、産業施設、個人の資産に至るまでを破壊し、戦争に対する物質的精神的な支えを喪失させたこの戦いは、後の20世紀の総力戦を予告するものであった。 == アトランタ占領までにいたるまで == 1863年7月のゲティスバーグの戦いとビックスバーグの戦いでの北軍の勝利の後、ユリシーズ・グラント将軍はジョージア州侵入を試みた。アトランタ攻略である。アトランタは数少ない南部連合の軍事産業の中心地で、同時にミシシッピ州やアラバマ州などの西部戦線とバージニア州の東部戦線をつなぐ要衝であり、実質上南部連合の心臓部といえるほど南部の統合と結束を象徴する都市であった。ここを落とすと南部の戦争続行が不可能となり、南部連合大統領のジェファーソン・デービスもアトランタ陥落だけは阻止しなければと思い、南軍本体である北バージニア軍の3分の1の兵力をアトランタ経由で西部戦線の南軍に援軍として送った。 北軍は9月に北バージニア軍の援軍を受けた南軍とチカモーガの戦いでぶつかり、初回のジョージア州侵入は失敗に終わった。南軍はこれを機にテネシー州奪還を試みるも、11月の第三次チャタヌーガの戦いで敗北し、ジョージア州へ後退を余儀なくされた。そのすぐ後にグラント将軍は、リンカーン大統領から北軍総司令官に任命され、自分の後任にウィリアム・シャーマン将軍を指名した。そしてバージニアへ赴く自分の代わりにアトランタの占領を命じた。 1864年5月1日、シャーマンは10万を超える兵力でチャタヌーガを出発してジョージア州に侵入、ドルトンで南軍のジョセフ・ジョンストンの南軍6万5千と対峙するも前面衝突はさけてアトランタへの迂回進行を続けた。それに伴ってジョンストン将軍も北軍のアトランタ侵攻を阻止するため退却せざるを得なくなり、ドルトンからレサカ、カルフン、アデアズヴィル、ニュー・ホープ・チャーチ、ビックシャンティ、ケネソウ山へと退却し、アトランタ防衛に努めた。しかしデービス大統領はアトランタから30キロも離れていないケネソウ山まで撤退したジョンストンを無能視し、解雇。後任にジョン・ベル・フッドを指名したが、攻撃型のこの将軍のもとで南軍兵力はアトランタの戦いなどに敗れ、かえって疲弊するばかりであった。完全包囲された南軍はついに9月1日深夜、主要な軍事施設を炎上させてアトランタを全面撤退。翌日2日未明シャーマン率いる北軍はアトランタを占領し、ワシントンD.C.へアトランタ陥落の電報を打った。このアトランタの占領はリンカーンの大統領再選にも大いに役立った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「海への進軍」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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