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海上警備隊(かいじょうけいびたい、)は、1952年(昭和27年)4月26日から7月31日まで、海上保安庁内に設置されていた海上警備機関。英名はMaritime Guard〔『よみがえる日本海軍(上)』pp.171-181《"Maritime Guard"は日本側の計画で使用され・・・バーク提督の手紙にも現れる・・・日本語の名称とすこしはかけ離れた英語名に翻訳されることがしばしば》〕/Maritime Security Force〔/Maritime Safety Security Force〔中公新書 増田弘 自衛隊の誕生 日本の再軍備とアメリカ pp.130-136〕と変遷した。 「海上における人命若しくは財産の保護又は治安の維持のため緊急の必要がある場合において、海上で必要な行動をするための機関」とされる〔昭和27年法律第97号による改正後の海上保安庁法第25条の2〕。ただし海上保安庁内の機関ではあるものの、警備救難監(当時の海上保安官トップ)の統制を受けないなど独立性の高い組織であった。約6,000名の定員のうち、幹部の99%以上と下士官の98%以上が旧海軍軍人であり〔NHK報道局「自衛隊」報道班 海上自衛隊はこうして生まれた―「Y文書」が明かす創設の秘密pp.259-260〕、旧海軍軍人主導の元、将来的には海上防衛力の母体として独立することを視野に入れた「スモール・ネイビー」として組織されていた〔〔。実際、発足同年の8月1日には早くも保安庁警備隊として海上保安庁から独立し、2年後の1954年(昭和29年)7月1日には、防衛庁(現在の防衛省)海上自衛隊へと発展している。 == 来歴 == 1945年(昭和20年)9月2日、米戦艦「ミズーリ」艦上で行われた日本の降伏文書の調印式を受けて、日本軍全軍の武装解除、戦闘停止が発動された。10月15日には大日本帝国海軍の軍令部門である軍令部が、11月30日には軍政部門である海軍省が廃止された。これを受け、12月1日には、海軍省が担ってきた復員などの業務を引き継ぐために第二復員省が発足したが、これも復員の進展に伴い、1946年(昭和21年)6月15日には第一復員省(陸軍省)と統合され、内閣の外局たる復員庁において第二復員局となった。1947年(昭和22年)末ごろより、旧海軍佐官級の同局員を中心に、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)やアメリカ極東海軍司令部(COMNAVFE)の要員と懇親を深めつつ、海軍を含めた再軍備の計画が練られるようになった。 一方、もともと海軍が担っていた日本周辺海域における法秩序維持任務はしばらく宙に浮くことになったが、治安悪化や輸入感染症の流行に伴い、不法入国船舶監視本部を経て、1948年(昭和23年)、連合国軍占領下の日本において洋上警備・救難および交通の維持を担当する文民組織として、運輸省(現在の国土交通省)の外局として海上保安庁が設立されることとなった。このとき、第二復員局から掃海業務を引き継いでいた運輸省海運総局掃海管船部掃海課(田村久三課長)も、保安局掃海課として海上保安庁に移管されることとなった。ただし創設当時は、武装した海上保安機構に対する極東委員会での反発を考慮したGHQ民政局の指示を受け、巡視船が軍事用ではないと明示するため、排水量・武装・速力に厳しい制限が課されていた〔。 1950年(昭和25年)10月、吉田茂内閣総理大臣が主催する会食の席上、極東海軍司令官(CNFFE)C・ターナー・ジョイ中将より、野村吉三郎元海軍大将に対して、ソ連労農赤色海軍から返却されたあと横須賀港に係留されているタコマ級フリゲート10隻の貸与を認めてもよい旨、非公式の打診があった。この打診を受けて、野村元大将は、保科善四郎元中将および復員庁第二復員局の元海軍軍人とともに海軍再興の私的な検討に入った。1951年(昭和26年)1月、保科元中将は富岡定俊元少将、吉田英三元大佐たちととも海軍再建案を取りまとめ、極東海軍司令部参謀副長(DCSTFE)アーレイ・バーク少将に提示した。計画はバーク少将の助言による修正を経て1952年(昭和27年)1月に受領され、2月には吉田首相にも説明された〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「海上警備隊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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