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海保 青陵(かいほ せいりょう、宝暦5年(1755年) - 文化14年5月29日(1817年7月13日))は、江戸時代後期の儒学者・経世家。通称儀平(儀兵衛)または弘助、字は萬和。青陵は号である〔荘子外物篇の「青青たる姿、陵陂に生ず」にもとづく(福永光司による)〕。別号に皐鶴。自著では「鶴」と称している。 人生の過半を遊歴に費やし、各地で『論語』などの中国古典や漢文作成の文法を教えながら、一方で経済上の様々な相談や指導を行って家計や経営の立て直しに手腕を振い、現在の経営コンサルタントの先駆けとも評される〔源(1971)。〕人物である。 == 略歴 == 丹後宮津藩青山家の家老・角田市左衛門(号・青渓、家禄は500石)の長子として江戸で生まれる。青渓は荻生徂徠の系統を引く経世家でもあり、青陵の父と当時の藩主青山幸道は従兄弟に当たっていたため、父は藩の勝手掛という重職に就き藩財政の立て直しに努力していた。しかし、藩に内紛が起こったことで隠居せざるをえなくなり、宝暦6年(1756年)数え年2歳にも拘わらず青陵が家督を相続する。2年後、4歳の時、藩主が美濃郡上藩に移封になると、一家は暇願いを出し浪人の身になる。ただし、青陵の父は、彼が生きている限り青山家から20人扶持に金100両ずつ毎年送られることになっていたので、一家が困窮することはなかった。こうした幼いころの体験が、青陵が権力により果たすべき政策に大きな関心を持ちつつも、権力の中枢にたってそれを行使する気をもてなかった原因だろう〔徳盛(2012)pp.32-33。〕。幼少時は父から、次いで10歳で父の師であった宇佐美灊水から儒学を学ぶ。灊水は荻生徂徠晩年の高弟で、徂徠学の公的な側面を受け継いだひとりである。16,7歳の頃、蘭学医桂川甫三に住み込みで学び、ここから灊水の塾に通った。その子で父青渓の門人でもあった桂川甫周と兄弟同然に暮らした。青陵は秀才甫周を生涯尊敬し、彼から西洋的な合理主義の思想を学んだという。明和8年(1771年)父青渓が尾張藩に出仕すると、青陵も後留書役に召されるが学問中として辞して就かず、安永5年(1776年)弟を嫡子として角田家の家督を譲り尾張藩に仕えさせ、自身は祖父の父の海保姓を名乗り、宮津藩青山公の儒者として家禄150石で奉公する。また、同年日本橋檜物町に学塾を開く。このころから経世の問題に目を向ける様になった。 安永8年(1779年)禄を返上し、さらに天明4年(1784年)青山家を脱藩、寛政元年(1789年)経世家として身を立てるために上洛、江戸と京都を中心(しばしば木村兼葭堂を訪ねている)に大半を旅行に費やし、各地を遊学しつつ財政難に陥る大藩の高級武士や商人に経世策を説く一方、各地の産業や経済を身をもって見聞し、青陵自身の思想を深めていった。1年逗留した武州川越で絹織物や煙草など産業改革案を進言したのは有名である。享和元年(1801年)尾張藩の儒学者細井平洲が死去し月並の講書が不足したため、青陵は再び尾張藩の藩儒となるも、享和4年(1804年)大病を理由に辞す。その後、金沢に2年弱逗留した後、文化3年(1806年)に京都を終生の場と定め塾を開き、今までの旅でえた豊かな経験を元に『稽古談』『洪範談』『前識談』など数多くの著作に結晶させた。また、当時の文人のならいで青陵は専門絵師の作品にしばしば着賛しているが、青陵自ら絵と賛をしたためた作品も残っている〔「木蓮図」(仙台市博物館編集・発行 『特別展図録 樹木礼賛 日本絵画に描かれた木と花の美』 2014年9月、p,78、131)など。〕。文化14年(1817年)、63歳で京都に没す。法名は随応専順居士。生前の青陵は常々弟子たちに「私には親族はいないから、死んだら火葬し骨を粉にして、大風の吹くにまかせよ」と語っていた〔交流のあった司馬江漢の証言(徳盛(2013)pp.328)。〕が、実際には金戒光明寺の塔頭・西雲院に葬られ、「海保青陵先生之墓」が現存している。大正13年(1924年)正五位を追贈された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「海保青陵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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