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海北 友雪(かいほう ゆうせつ、慶長3年(1598年) - 延宝5年9月3日(1677年9月29日)は、日本の江戸時代初期の絵師。安土桃山時代を代表する絵師の一人・海北友松の子。名は道暉、友雪は号。 == 略伝 == 友松の晩年66歳時の長子とされるが、あまりに遅い子のため養子の可能性もある。若い頃から友松から画技の指導を受けていたらしく、その影響は終生友雪画の細部描写に見て取ることができる。18歳で父を失い海北友雪として画史に登場する以前は、絵屋を営む「小谷」(海北家は小谷城主浅井家に仕えていたため)または「絵屋」忠左衛門と名乗って生計を立てた。その背景には友松が狩野派のような強固な絵師集団を形成していなかった事が挙げられる。現在残っているこの時期の作品は絵馬が大半を占めるものの、史料では絵屋として多種多様な絵を書いていたことが確認でき(『時慶卿記』)、実際山水画や大和絵、武者絵に寺社縁起などの遺品が残る。 絵屋忠左衛門に大きな転機がおとずれたのは、春日局の推挙で徳川家光に召し出され、その御用を仰せ付けられた事である。父友松は春日局の父斎藤利三が山崎の戦いで敗死すると、利三一家を厚く庇護したことがあり、春日局はその旧恩に報いようとしたためだとされる。召し出された時期は海北家に残る『海北家由緒記』にも記されていないが、おそらく寛永半ば過ぎと推測され、江戸に屋敷を与えられ、その頃から友雪を名乗る。当時の好みに合わせようと狩野派に接近、春日局開基で菩提寺の妙心寺塔頭麟祥院「雲竜図」「西湖図」などの襖絵にその強い影響が見られる。以後狩野探幽に従い、明暦・寛文・延宝期の内裏障壁画制作に狩野派外では例外的に毎回参加(『隔冥記』『海北家由緒書』)。後水尾上皇などの宮廷の御用もしばしば勤め、60代に入って間もなく法橋にも叙せられた。 80歳で死去。法名は覚翁友雪斎道暉居士。墓所は京都十念寺。友雪の長子は僧侶になっていたため、海北友竹が継いだ。以後、海北家は明治まで友雪-友竹-友泉-友三-友徳-友樵-友真と続き、京都で禁裏などの御用を務める家として存続することになる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「海北友雪」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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