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『自由海論』または『海洋自由論』(ラテン語:''Mare Liberum'')とは、フーゴー・グロティウスによってラテン語で書かれ1609年に初版が刊行された本である。正確な題名は『自由海論、インド貿易に関してオランダに帰属する権利について』(''Mare Liberum, sive de jure quod Batavis competit ad Indicana commercia dissertatio'')という。『戦争と平和の法』(ラテン語:''De jure belli ac pacis'')と並び「国際法の父」といわれるグロティウスが著わした代表的な法学書のひとつである。母国オランダの立場を擁護する観点から海洋の自由を論じ、それを論拠としてすべての人が東インドとの通商に参加する権利を有するとして、オランダは東インドとの通商を継続すべきであることを主張した。『捕獲法論』(ラテン語:''De jure praedae'')がグロティウスの死後の1864年に発見されたことにより、この『自由海論』は『捕獲法論』の第12章として書かれたものに修正を加えたものであったことが明らかになった。『自由海論』は学術的論争の発端となり、その後の近代的な海洋法秩序形成を促すこととなった。現代の公海に関する制度にはこの『自由海論』で論じられた理論に起源をもつものもある。 == 出版の経緯 == === 『捕獲法論』執筆 === グロティウスが『捕獲法論』を執筆したのは1604年秋から1605年春の間、グロティウスが22歳のころで、改訂作業まで含めると執筆のすべてが終わったのは1606年秋のころといわれる。執筆のきっかけは1603年2月25日にアムステルダムの船主組合で商船隊を指揮していたヘームスケルク提督(グロティウスの父方の祖母の弟)がマラッカ海峡でポルトガルの商船カタリナ号を捕獲した事件であった。この事件に関してオランダの海事裁判所で裁判が行われ、1604年9月9日に船主組合と合併した東インド会社に有利な判決が下され、捕獲によって得た品々を東インド会社が合法的に没収することができることが認められた。しかしこのような強引な手段によって利益を受けることはキリスト教の教えに反するとして東インド会社の一部の者たちはこの捕獲によって利益を受けることを拒み、そのなかには会社を脱退したり新たに会社を立ち上げる計画を立てる者もあらわれるなど、このとき東インド会社は混乱に陥った。現在では裁判の資料が焼失しているために確証はないが、当時グロティウスがアムステルダムで弁護士をしていたこと、グロティウス自身が東インド会社と密接な関係にあることを書簡の中で述べていたこと、執筆にあたってグロティウスが東インド会社の資料を利用していること、以上の理由から、グロティウスが『捕獲法論』を執筆したのは、こうした混乱の中で東インド会社からこのカタリナ号捕獲の正当性を論証し同社の立場を弁護することを要請されたためといわれている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「自由海論」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Mare Liberum 」があります。 スポンサード リンク
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