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海軍経理学校(かいぐんけいりがっこう)とは、大日本帝国海軍で庶務・会計・被服・糧食を受け持つ主計科〔伊藤隆(監修)、百瀬孝(著) 『事典 昭和戦前期の日本 制度と実態』 吉川弘文館、1990年、ISBN 4-642-03619-9、355ページ。〕要員育成のために置かれた軍学校としての養成学校である。主計科士官の基礎教育を行う初級士官養成校の機能と、主計科の専門教育を主計科士官および下士官・兵に施す術科学校としての機能を兼ね、さらに研究機関でもあった。1907年(明治40年)に創設され、第二次世界大戦終結後に日本海軍が解体されるまで続いた。主要校舎所在地は現在の東京都中央区築地。海軍兵学校および海軍機関学校とならぶ旧海軍三校の一つである。略称は海経(かいけい)。 == 沿革 == 海軍経理学校の起源は、1874年(明治7年)開校の海軍会計学舎とされている。このときの所在地は築地ではなく、増上寺のある芝山内天神谷だった。その後、日本海軍の主計科士官養成制度は頻繁に変更され、それに伴って教育機関も紆余曲折をたどった。校名は、海軍会計学舎(1874年-1876年)、海軍主計学舎(1876年-1877年, 1882年-1886年)、海軍主計学校(1886年-1893年)、海軍主計官練習所(1899年-1907年)と廃止期間を挟みつつ変遷した。海軍主計学校時代の1888年(明治21年)に校舎が築地へ移転し、以後の海軍経理学校の中心地となっている。この間、1889年(明治22年)には、海軍内部で若年者を生徒から教育して少主計候補生(士官候補生の一種)を養成する方式が廃止され、軍外からの登用試験で少主計候補生にする方式のみとなっている。他方、下士官・兵対象の練習生教育は、同じ1889年から開始された〔「海軍経理学校の歴史 」『御楯橋をわたって』〕。 日露戦争後になって現行方式では主計科士官人材の確保が不十分であるとされ、宇都宮鼎主計大監の主導で生徒教育からの主計科士官養成再開が決まった。1907年(明治40年)に海軍主計官練習所を海軍経理学校と改称し、2年後の1909年(明治42年)に海経第1期生が入校した。学生や練習生の教程区分もこの頃に確立された〔。なお、生徒教育再開後も、旧制大学在学中に依託学生として採用したうえ卒業後に主計科士官へ任用する制度が併存し、1923年(大正12年)までは任用例があった〔雨倉(2007年)、294頁。〕。 1938年(昭和13年)には、軍備拡張による主計科士官の需要増大に対応するため二年現役士官(短期現役士官、短現)制度が主計科にも拡大され、経理学校で二年現役士官を対象とした補修学生教育が開始された。在校者増加に対応するため校舎移転も検討され、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)にお台場へ品川分校を開き、練習生、ついで補修学生を逐次移転。1944年(昭和19年)に本校舎を品川へ移転して、築地を分校化。1944年から1945年(昭和20年)には疎開の関係もあって浜松分校(練習生)、垂水分校(生徒)、橿原分校(予科生徒)の各校が開かれ、経理学校本部を垂水に置いた状態で終戦の日を迎えた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「海軍経理学校」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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