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蜂須賀 忠英(はちすか ただてる)は、阿波徳島藩の第2代藩主。 == 経歴 == 慶長16年(1611年)4月に生まれる。初めは曽祖父・正勝(小六)と父・至鎮より1字ずつ取って正鎮(まさしげ)を名乗り、のち徳川秀忠の偏諱を賜って忠鎮(ただしげ)、忠英(ただてる)に改名。元和6年(1620年)、父の死去により跡を継ぐが、幼少のために祖父の蜂須賀家政が後見した。元和9年(1623年)9月10日、従四位下阿波守に叙任された。寛永2年(1625年)に藍方役所を設置し藍の流通統制を行った。寛永3年(1626年)8月19日、侍従を兼任。寛永6年(1629年)、家政による政務後見が名目上では終了したが家政の影響は寛永15年(1638年)に亡くなるまで残ったと考えられている。 寛永8年(1631年)、稲田示植を脇から淡路由良城代に、ついで洲本城代に移し淡路支配の体制を築くとともに要所である脇を直轄地とした。寛永9年(1632年)、自身の腹心である蜂須賀玄寅と長谷川貞恒を仕置家老に任じる。寛永10年、海部郡内7,500石を領する江戸家老の益田長行が禁制を破って山林の木を伐採し、江戸で売ろうとしたことを藩の役人が摘発し、長行は領地を召し上げられ、その後13年間幽閉された。これを恨んだ長行は正保2年(1645年)までに忠英が幕府禁制を破り大船を建造し、さらに切支丹への宗門改めを怠っていると訴えた。正保3年(1646年)、幕府は評定所にて長行と長谷川貞恒を対決させた。結果、長行の訴えが虚偽であったとして長行の身柄は忠英に預けられ、阿波への移送中に病死したとも江戸屋敷にて斬刑されたともされる。この一連の騒動を海部騒動という。 また、至鎮が発布した御壁書二十三箇条を補完する裏書七箇条を発し、農民統制を図った。慶安5年(1652年)4月に死去し、跡を長男・光隆が継いだ。享年42。墓所は徳島県徳島市の興源寺。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蜂須賀忠英」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Hachisuka Tadateru 」があります。 スポンサード リンク
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