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海野平の戦い(うんのたいらのたたかい)は、戦国時代の天文10年(1541年)5月25日に信濃国小県郡(長野県上田市)で起きた合戦。天文年間に甲斐国を統一した甲斐守護武田信虎と、村上義清や諏訪頼重など武田と結んだ信濃国人の連合軍が小県郡へ侵攻し、小県を領する海野棟綱ら滋野三家(海野氏、禰津氏、望月氏)や真田氏との間で行われた。海野平合戦。 == 前史 == 信濃国は室町時代より守護・小笠原氏による統制が取れず、戦国時代も小笠原氏の支配力は限定的で、地域単位で勢力基盤をもつ国人領主が割拠していた。東信地域では小県郡の国衆・信濃村上氏と海野氏が地域支配をめぐって抗争し、室町時代の応仁2年(1468年)には両者の抗争から海野大乱が起こっている。村上氏は海野氏を圧迫すると共に佐久郡にも侵攻を始め、文明16年(1484年)には佐久郡の国人・大井氏の大井政則を下し、佐久郡に支配力を得るようになっていった。 一方、信濃佐久郡・小県郡と接する甲斐国では応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱で守護・武田信満の滅亡により守護権力が弱体化し、有力国人との抗争が繰り広げられていた。永正4年に家督を継承した武田信虎は国内統一を達成すると、信濃諏訪郡を領する諏訪頼満が甲斐国人と結んで信虎と敵対した。武田信虎は永正16年(1519年)に佐久郡平賀城を攻めている。この時は村上氏が援軍として出陣し、武田信虎は平賀周辺に火を放っただけで退散している(この戦いが村上義清の初陣とされる)。大永2年(1522年)にも大井城を攻めるが、村上氏の援軍により敗北している。 天文4年(1535年)9月、武田信虎と諏訪頼満は和睦すると、両者の間では同盟が結ばれる。信虎はさらに駿河国の今川氏や、扇谷上杉氏・山内上杉氏との同盟を成立させた。『甲陽軍鑑』によれば、武田氏は翌天文5年11月には佐久郡海ノ口城を攻略する(海ノ口城の戦い)。天文8年(1539年)には武田家臣・飯富虎昌が佐久に侵攻し、村上義清と戦っている。 天文9年(1540年)は、2月に村上軍が甲斐に侵攻、4月には武田方の板垣信方が佐久に侵攻するなど、武田氏と村上氏の激しい攻防が繰り広げられたが、結果として村上氏方が押し切られ、佐久郡は実質的に武田氏に制圧される。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「海野平の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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