翻訳と辞書
Words near each other
・ 涙の色
・ 涙の茉莉花LOVE
・ 涙の落ちる速度
・ 涙の虹
・ 涙の虹/SAVE ME
・ 涙の誓い
・ 涙の誓い (和田アキ子の曲)
・ 涙の誓い (曖昧さ回避)
・ 涙の谷
・ 涙の連絡船
涙の道
・ 涙はどこへいったの
・ 涙よりはやく走れ/さっぱり行進曲
・ 涙をこえて
・ 涙をとどけて
・ 涙をとどけて (トータス松本の曲)
・ 涙をふいて
・ 涙をぶっとばせ
・ 涙をぶっとばせ!!
・ 涙をみせないで


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

涙の道 : ミニ英和和英辞書
涙の道[なみだのみち]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [なみだ]
 【名詞】 1. (1) tear 2. tears 3. lachrymal secretion 4. (2) sympathy 

涙の道 : ウィキペディア日本語版
涙の道[なみだのみち]

涙の道(なみだのみち、英:Trail of Tears)とは、1838年アメリカ合衆国チェロキーインディアンを、後にオクラホマ州となる地域のインディアン居留地に強制移動(Population transfer)させたときのことをいう。このとき、15,000名いたチェロキー族のうちおよそ4,000名が途上で亡くなった。
チェロキー族の「涙の道」は、1830年の「インディアン移住法」の規定に基づいて署名されたニュー・エコタ条約の実践として起こった。条約は東部のインディアンの土地とミシシッピ川以西の土地との交換を取り決めたものであったが、インディアンの選ばれた指導者達にもチェロキー族の大多数の人々にも受け入れられてはいなかった。それにもかかわらず、条約は時のアメリカ合衆国大統領アンドリュー・ジャクソンによって実行に移され、西部に出発する前に合衆国軍が17,000名のチェロキー族インディアンを宿営地にかり集めた。死者の多くはこの宿営地での病気で倒れた。最初の集合の後は、合衆国軍の役目は限られたものになり、チェロキー族が移動の大半の監督を担当した。
チェロキー族の言語で、この出来事は、''nvnadaulatsvyi'' 「我々が泣いた道」と呼ばれている。チェロキー族は、合衆国のインディアン移住の動きの結果として移動させられたインディアンでは唯一のものではなかった。「涙の道」という言葉は同じように移動させられた他の種族、特に「5つの文明化された部族が体験したときも使われた。元々この言葉は最初に5つの文明化された種族の一つ、チョクトー族が強制移住させられた時に生まれた。
== ジョージア州とチェロキー族 ==
19世紀初期における合衆国の急速な人口増加によって、多くの州の境界内に住むアメリカ・インディアンとの緊張関係が高まった。州政府は境界内に独立したインディアン居留地を抱え込むことを望まなかったが、インディアン種族は移住することを望んでいなかったし、独自のアイデンティティを持つことを諦めようとは思っていなかった。
1802年の協定で、ジョージア州は連邦政府に対する西部領土の領有権主張を諦めた(この領土は後にアラバマ州ミシシッピ州になった)。その代償に、連邦政府はジョージア州の中に住んでいるインディアン種族を移動させる条約の締結と実践を約束した。このことにより、ジョージア州は境界内のすべての土地を管轄可能になった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「涙の道」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.