|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 淡 : [たん] 1. (pref) pale 2. light 3. thin 4. faint ・ 口 : [くち] 【名詞】 1. mouth 2. orifice 3. opening
淡口 憲治(あわぐち けんじ、1952年4月5日 - )は、兵庫県西宮市出身の元プロ野球選手(外野手)。 == 来歴 == 三田学園高等学校では二年の時、1969年の春の選抜に山本功児とともに出場、準々決勝で堀越に敗退。翌年の選抜にも1学年下の羽田耕一とクリーンナップを組み連続出場。同じく準々決勝で鳴門に敗れる。 のドラフト3位で読売ジャイアンツに入団。当時の監督川上哲治の期待が大きく、入団1年目より一軍に昇格を果たす。頃から頭角を現し、翌には規定打席不足ながらも打率.293の成績を残し、将来を嘱望された。 だがに日本ハムファイターズから張本勲がトレードで移籍してくると、張本、柳田俊郎、末次利光との外野手のレギュラー争いが激化。レギュラーを奪えなかった淡口は代打での起用が多くなる。1976年10月12日長嶋茂雄監督率いる巨人初優勝のマジック1とした試合の4回裏二死満塁で安仁屋宗八の2球目のスライダーを叩いて10号本塁打を放ったが、これは同時に日本プロ野球通算700本目の満塁本塁打であった。にはプロ入り初の規定打席到達を果たし、打率.302の成績をマークするが、駒田徳広や吉村禎章といった若手の台頭もあり年々出場機会が減少していった。 オフに、有田修三とのトレードで山岡勝とともに近鉄バファローズに移籍した。もともとは有田と定岡正二とを交換することが近鉄・巨人両球団間で合意に達していたが、巨人から通告を受けた定岡は「トレードならユニフォームを脱ぐ」とトレードを拒否して現役を引退した。そこで淡口が対象となった。淡口も、大阪府を本拠地とする近鉄に移籍すれば当時兵庫県西宮市に住んでいた母親にいつでも顔を見せることができる、とトレードを承諾した。 移籍1年目のに115試合出場、打率.297の成績を残し、同い年で同じ近鉄移籍1年目新井宏昌と共に外野手のレギュラーを獲得。の「10.19」にも出場している。1989年の日本シリーズで古巣・巨人と対戦し、第2戦で桑田真澄から同点タイムリーを放つ。この日本シリーズを花道に現役引退した。 引退後、からまで巨人の打撃コーチ、二軍監督を務めた。特に新人時代の松井秀喜、清水隆行〔清水は淡口と同じ右投左打の外野手で、背番号も淡口と同じ「35」であったことがある。〕などに「ウォーキング打法」を教え、主力打者に育て上げた。巨人二軍監督時代の1月12日、「サタデー・ウェイティング・バー」(エフエム東京)の「家族特集・成人式」に、広告代理店勤務の長男と出演し、子供から見た野球選手の父親とはどういう姿なのかというテーマで、対談形式で語った。 からまでは巨人時代の同僚・高田繁がゼネラルマネージャーを務めていた北海道日本ハムファイターズで打撃コーチを務めた。日本ハムでは、それまで数年に1回3割台を打つ程度だった稲葉篤紀を覚醒させるなど、短中距離打者(特に左打者)の指導に実績を残した。反面、自分とタイプの異なる打者(右の長距離打者など)の指導は苦手なようで、左の長距離打者が不在だった2007年の日本ハム打線は得点と本塁打数がリーグ最少、チーム打率は同5位と低迷した。巨人コーチ時代も同様の状況で、チームが貧打に陥ったときがあった(巨人は対策として複数コーチ制を導入し解決を図った)。 からは東京ヤクルトスワローズ監督に転身した高田の縁で、ヤクルトの二軍打撃コーチに就任。からは東京ヤクルト一軍打撃コーチに転任となった。2010年5月26日には、チームの打撃不振の責任をとって進退伺を球団に出したが、高田前監督と球団の説得で残留した〔燕コーチ陣体制確認、淡口打撃コーチ残留 〕。 からまでヤクルトの二軍打撃コーチを務めた。からスポーツ報知野球評論家。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「淡口憲治」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|