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淡河 弘(おごう ひろし、1940年2月19日 - )は、福岡県〔プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、127ページ〕出身の元プロ野球選手。(捕手) == 経歴 == 久留米商業では同期の手島征男投手(法大-日産自動車)とバッテリーを組む。1956年、2年生の時に春の選抜に出場し、1回戦で堀川高に敗退。翌1957年の選抜にも連続出場。準決勝にで早稲田実業と対戦したが、王貞治投手に0-6で完封され、決勝進出はならず。 卒業後は東洋高圧大牟田に入社し、田中勉投手とバッテリーを組む。の都市対抗に出場。2回戦(初戦)で松下電器と対戦し、先制適時打を放つが1-2で惜敗。翌の 大会では準々決勝に進出、エース大工勝を擁する富士鉄広畑と延長12回1-1で引き分け。この試合で淡河は貴重な同点本塁打を打っている。しかし、再試合では連投の大工に0-5で完封負けを喫した。 1962年に読売ジャイアンツへ入団〔。翌年に一軍で初出場するが、森昌彦の控えにとどまる。1965年からは一軍の試合には出場せず、支配下登録扱いだったがチーム内での役割はブルペン捕手だった。 1974年に現役引退し、1975年から巨人の一軍バッテリーコーチに就任〔。長嶋茂雄新監督を支えたが、球団初の最下位に終わるなど低迷し、二軍バッテリーコーチとなった1976年退団。1977年からはヤクルトスワローズのコーチとなり、1978年のリーグ優勝と日本一に貢献。1979年退団。1984年からは日本ハムファイターズに移籍し、一軍バッテリーコーチ(1984年)・二軍バッテリーコーチ(1985年 - 1988年, 1991年 - 1995年)、スカウトを歴任した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「淡河弘」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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