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深井克美 : ミニ英和和英辞書
深井克美[び]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [い]
 【名詞】 1. well 
: [び]
  1. (n,n-suf) beauty 

深井克美 : ウィキペディア日本語版
深井克美[び]
深井 克美(ふかい かつみ、1948年3月9日 - 1978年12月16日)は北海道函館市出身の洋画家1972年10月、第36回自由美術展に〈作品1〉が初入選し、佳作作家に選ばれる。1973年の第37回展には〈バラード)〈黄昏)が入選し、自由美術協会の会員となる。
== 略歴 ==
1948年3月9日、北海道函館市千代ヶ岳(現在の千代ヶ台町)に父赤崎宗一郎、母千枝子の長男として生まれる〔『北海道近代美術館編 ミュージアム新書[14]深井克美 - 未完のランナー -』(柴勤著、北海道新聞社、1994年)略年譜より〕。1951年10月に妹の由利が生まれるが、翌11月に父親が結核で死亡。母は由利を養子に出し、12月に克美をつれ上京する。女手一つのうえ、克美は亡くなった父親の結核に感染しており、脊椎カリエスを患っていたため生活は困難を極める。1954年母は克美とともに旧姓深井に復す。1961年に長崎小学校を卒業、豊島区立千早中学校に入学するが、1962年肺門リンパ線結核、および腎臓結核などの治療のため小児病院に入院。この治療で患っていたカリエスはほぼ完治したが、後遺症として脊椎変形(猫背)が残る。1962年12月に清瀬町立清瀬小児病院分立教室に転入学。
中学時代に美術に関心を持ち、東京都立杉並工業高等学校工業化学科に在学中に画家の道を意識し始める。1968年3月に都立杉並工業高等工業化学科卒業、4月から同校同学科の実習助手として勤務。同年、第32回自由美術展に出品された西八郎の〈食事のあと〉に感銘を受け、同氏に師事する。西の徹底した細密描写の影響は後の作品に見いだす事ができる。翌1969年、絵画を学ぶため目黒の鷹美術研究所に通う。翌年1970年9月から、西の勤めに従い、武蔵野美術学園絵画教室夜間部に入学する。
1972年10月、第36回自由美術展に〈作品1〉が初入選し、佳作作家に選ばれる。1973年の第37回展には〈バラード)〈黄昏)が入選し、異例の早さで会員に推挙される。以後自由美術展に毎年出品し、1976年頃、自宅近くの米軍ハウス(狭山市)にアトリエを借りる。1977年、都立杉並工業高等工業化学科を退職し、アトリエや所沢カトリック教会などで絵画教室を開き画業に専念する。1978年3月、初めての個展<銀座シロタ画廊>を開催。個展後〈ランナー(未完))の製作中、1978年12月16日午後1時頃、通りかかった練馬区のマンションの八階で投身自殺を図る。同日1時13分。近くの病院で死亡する。享年30歳。自殺の直接の原因は不明。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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