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深沢晟雄 : ミニ英和和英辞書
深沢晟雄[ふかさわ まさお]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [さわ]
 【名詞】 1. (1) swamp 2. marsh 3. (2) mountain stream 4. valley 5. dale 
: [おす]
 【名詞】 1. male (animal) 

深沢晟雄 : ウィキペディア日本語版
深沢晟雄[ふかさわ まさお]

深沢 晟雄(ふかさわ まさお〔戸籍上の読み。地元ではふかざわと呼ばれていた。〕、1905年12月11日 - 1965年1月28日)は、岩手県和賀郡沢内村(現・西和賀町)の元村長。豪雪貧困・多病多死に苦しめられていた同村において、「生命尊重」の思想を基盤とした行政を推進して逆境を克服。多くの村民の命を救った名村長として今なお尊敬されている。
==経歴==
明治38年(1905年)12月11日、岩手県沢内村の小地主の家に一人っ子として生を受ける。小学校は村立新町小学校太田分教場に入学した。性格は明るく、人一倍賢いが、心根は常に優しい子だったという。学業が優秀だったことから、後に一関中学校から仙台第二高等学校を経て東北帝国大学に進む。かつて深沢の祖父が政治家をして家財を傾けた経験から、両親からは医者になるよう望まれたが、本人は早くに医学部に愛想を尽かし、後にこっそりと法文学部へと移籍しそのまま卒業した。その後は上海台湾総督府満州重工業開発などに勤務し、その辣腕を発揮した。この間、同郷の田中キエと結婚。娘を授かるが、キエは2人目の子を妊娠中に妊娠中毒症で急死。後に和賀郡十二鏑村(現・花巻市)出身の菊池ミキと再婚し、2人は生涯の伴侶となった。
昭和20年(1945年8月15日、深沢は妻ミキと共に終戦を満州の炭鉱で迎えた。混乱のなか、彼は侵略者の先兵として人民裁判であわや死刑宣告を受ける寸前にまで追い込まれたが、幸運にも無罪判決を受け(深沢に見覚えがない中国人男性が「深沢は違う。日本はそう(侵略者)だが、深沢は違う」と証言したという)、命からがら日本に帰国した。沢内村に帰った深沢は、農業に従事するかたわら青年会学習講座で「時事問題」の講師を務めた。このころ、一部の村民が深沢の海外勤務によって培われた先見性や客観性、政治家としての資質に注目し、村長候補に擁立しようとしたが、本人が話に乗らず頓挫した。
この時期の深沢に影響を与えた人物として、彼と同じく青年会学習講座の講師をしていた斉藤龍雄の名が挙げられる。斉藤は元軍医少尉の日本共産党員で、深沢にとっては友人であり論争相手でもあった。斉藤の担当は「共産主義のお話」で、「資本主義の矛盾の根本的解決には共産主義の実現が必要であり、資本主義から共産主義への移行は歴史的必然である」と主張した。これに対して深沢は、共産主義を人類の理想として認めつつも「まず村の現実問題を解決することが必要である」と主張し、共産主義とはあくまで隔たる観点から持論を展開した。その後も深沢は斉藤とは何度も激論を戦わせたが、「人間の尊重には民主主義が必要であり、そのために平和が必要であり、貧乏の追放が必要である」という点で両者の意見は深く一致していた。深沢の「人間の尊厳・生命尊重こそが政治の基本」とする政治哲学は、斉藤との論争のなかで育まれたと言える。
昭和23年(1948年)、深沢は満州時代の上司に請われ佐世保船舶工業(現・佐世保重工業)に入社。再度村を離れることになった。入社して2年後の昭和25年(1950年)、朝鮮戦争が勃発し、日本の造船業界は特需に沸いた。佐世保船舶工業も例外ではなく、この時期大量に労働者を雇い入れた。しかし休戦会談が始まると一転して「平和恐慌」と呼ばれる不況に襲われ、社員の人員整理が大きな問題となった。深沢自身は不景気だからといって安易に首切りをしようとする会社のやり方には反対だったが、皮肉にも彼の仕事は人員整理を進めることだった。悩んだあげく、彼は辞表を提出し、5年間暮らした佐世保を去った。深沢は1年ほど東京で会社勤めをした後、昭和29年(1954年)に沢内村に帰り、黒沢尻南高等学校沢内分校(定時制)の英語講師となった。
かつての沢内村は岩手県内でも特に貧しい土地として知られており、天明2年(1782年)頃には村全体で南部藩に納める年貢米が用意できず、代わりに16歳の美人村娘・およねを藩に献上したという悲しい伝説が残る寒村であった。そんな過酷な環境故に、当時の沢内村は貧しさから来る栄養失調や衛生環境の悪さから乳児の命が奪われることが多く、乳児死亡率も約7%と、全国最下位である岩手県の中でも最も高かった(当時の東京は約2.7%)〔『そのとき歴史が動いた』 〕。
また、沢内村は日本屈指の豪雪地帯として有名であり、冬季には3メートルをゆうに超える積雪がある。そのため冬季は雪で道が閉ざされ、病人や乳児を病院に運ぶこともままならず、風邪をこじらせた病人をに乗せて運ぶ途中、雪中に立ち往生するうちに患者が死亡するという例が多くあった。この村では、病人が治療を受けないまま死ぬことはごく当然のことであった。また、行き過ぎた貧困のため『病院にかかることは治療費がかさむことで家の財産を失う』という考えも根強く(「かまど返し」と呼ばれる)、家計の負担にならないようにと自殺する高齢者も珍しくなかった。死亡してから初めて医者にかかる事も多かった。死亡診断書を書いてもらうためである。
深沢は沢内村の悲惨な状況を憂い、授業中に教科書を伏せて「諸君、沢内村は今のままでいいと思うかね?」などと生徒に問いかけるようになった。これが評判となり、彼は役場の要請を受けて教育長に就任した。就任後は「住みよい村づくりには住民の団結・協働が不可欠」との信念のもと、婦人連絡協議会や青年連絡協議会、農協青年部や役場の職員組合の結成をうながし実現させたほか、自らも村の広報紙の編集長、民謡保存会会長、岩手県ナメコ協会沢内支部長を務めるなど活躍した。
この実績が評価され、昭和31年(1956年)、深沢は沢内村助役に就任。7ヵ月という短期間だったが村長を補佐して働いた。そして翌昭和32年(1957年)、「豊かで健康的で明るい村づくり」をスローガンに掲げ村長選挙に立候補、無競争で当選を果たした。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「深沢晟雄」の詳細全文を読む




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