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深見千三郎 : ミニ英和和英辞書
深見千三郎[ふかみ せんざぶろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [せん ち, ち]
 【名詞】 1. thousand 2. many
: [み]
  1. (num) three 

深見千三郎 : ウィキペディア日本語版
深見千三郎[ふかみ せんざぶろう]

深見 千三郎(ふかみ せんざぶろう、1923年3月31日 - 1983年2月2日)は、北海道浜頓別町出身のコメディアン、舞台芸人、演出家脚本家。本名:久保 七十二(くぼ なそじ)。ビートたけしや、萩本欽一などの師匠であるが、深見がテレビなどのメディアに登場することはなかったため、その存在は、全国的にほとんど知られておらず、「幻の浅草芸人」と言われている。何度か結婚と離婚を繰り返しており、最後の妻は同じ浅草フランス座踊り子・紀の川麻里。子供については不明である。
姉は浅草の人気芸者歌手の「美ち奴」(みちやっこ)。
== 略歴 ==
現在の北海道浜頓別町で、木工所を営んでいた父母の末っ子として生まれる。高等小学校を卒業後、先に上京し、浅草で売れっ子芸者になっていた姉の染子(美ち奴)を頼り上京。浅草ではタップダンスギターなど芸事の習得に勤しむ。一時商家に奉公に上がるが長続きせず、姉の知人だった片岡千恵蔵の紹介で京都太秦に移り、本格的に芸の修行をする。その際に片岡千恵蔵の「千」の字を貰い、芸名を深見千三郎とした。
1年ほど京都で修行した後に浅草に戻る。その後は順調に舞台をこなしていたが、戦時中に徴用された軍需工場で機械に左手を巻き込まれ、親指以外の指を切断する大ケガを負う(深見によれば戦場に行きたくなかったが故に、わざと、大けがをしたという。)。東京大空襲で両親が死亡、本人は帰郷して1945年に『深見千三郎一座』を旗揚げする。座長として全国各地を回った後、1959年頃に浅草へ再進出、ストリップ劇場『浅草ロック座』に入る。その後、同じくストリップ劇場の『フランス座』(現・浅草フランス座演芸場東洋館)の経営に参画したが、経営に行き詰まり経営権を手放すと共に芸人も引退、東八郎の元弟子の経営する化粧品会社に入り、サラリーマン生活を過ごしていた。
深見の最後の妻が亡くなってから、酒量が急激に増えていたとされる。1983年2月2日、自宅であるアパート「第二松倉荘」(台東区浅草・現存せず)の自室でタバコの火の不始末が原因で火災を起こし、折りしもはしご酒をして泥酔していたことが災いして逃げ遅れ、焼死した。 。弟子であるビートたけしは後年、自伝的小説「浅草キッド」にて深見の最期の状況を振り返っており、それによると深見の遺体は玄関で倒れていた状態で見つかり、また両手で抱えられるくらいの小ささになってしまっていたとのことである。
マスコミは、深見の焼死に関しては「笑いの師匠孤独な焼死」と大々的に報道された。このように深見の名前が大きく報道されたのは、生涯、最初で最後であった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「深見千三郎」の詳細全文を読む




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