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添田 知道(そえだ ともみち、1902年6月14日 - 1980年3月18日)は、日本の演歌師、作家、評論家である。芸名は-さつき、号は吐蒙(ともう)、啓蒙の逆で「世迷いごとを口にする」の意。 ==人物・来歴== 1902年(明治35年)6月14日、添田唖蝉坊の長男として東京に生まれる。幼くして母を亡くし他家へ養子にやられるが、下谷区の万年小学校(学校はなくなったが、現在はその地に台東区立駒形中学校がある)で坂本龍之輔(駒形中学校飛地のグラウンド脇に胸像あり)の世話になり、1914年卒業する。 1916年(大正5年)、日本大学附属中学校(現在の日本大学第一高等学校)中退の後、堺利彦らの売文社に勤め、父の演歌活動に参加、その跡を継いで「添田さつき」の芸名で演歌師となり、『パイノパイノパイ』などの流行歌を作り出す。浅草の会、素面の会などの世話役を務める。 1927年(昭和2年)より文筆活動を開始し、1940年(昭和15年)、街頭演歌の衰退に伴い文筆に専念、本名で、万年小学校時代の恩師・坂本を主人公とした長編小説『小説 教育者』(全四部)を書き、1942年(昭和17年)、新潮社文芸賞を受賞した。作品は、長谷川伸、吉川英治らから激賞される。受賞の時点では、『小説 教育者』は、第三部までしか書かれていなかった。 戦後は、演歌師の生活などを描いた著作を刊行し、1964年(昭和39年)、『演歌の明治大正史』で毎日出版文化賞受賞。1967年(昭和42年)、『歌と音でつづる明治』の監修で、第9回日本レコード大賞企画賞を受賞。 1980年(昭和55年)3月18日、信州・上田市の安藤病院で食道がんで死去。77歳没。「添田知道を偲ぶ会」が、同年5月2日、浅草の伝法院で行われ、竹中労、田谷力三、小沢昭一らが参集した。 『日本春歌考』は、大島渚監督の同名の映画の着想の元となった。また、浅草・浅草寺の境内鐘楼下には、父・唖蝉坊の碑と知道の筆塚がある。遺稿などは、神奈川近代文学館に寄贈された。 近年、チンドン楽団のソウル・フラワー・モノノケ・サミットが、父・唖蝉坊の楽曲とともに知道の楽曲もレパートリーにしており、CD作品としてもリリースしている(『アジール・チンドン』に「復興節」「東京節」が、『デラシネ・チンドン』に「ストトン節」が収録)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「添田知道」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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