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清・ネパール戦争(しん・ネパールせんそう、英語:Sino-Nepalese War, 中国語:廓爾喀之役、ネパール語:नेपाल-चीन युध्द)は、中国の清朝とネパール王国(ゴルカ朝)との間に起った戦争。しばしばグルカ戦争、ネパール・チベット戦争とも呼ばれることがあるが、これらに関してはそれぞれの記事を参照。 この戦争はネパールがチベットに侵攻したことを契機に、その宗主国である清がチベットを援護する形でネパールと交戦したものである。戦争の結果、ネパールは清に敗北を認め、その朝貢国となった。 ==戦争に至るまで== 1740年以降、ゴルカ王プリトビ・ナラヤン・シャハはマッラ朝の支配するカトマンズ盆地の支配に取り掛かり、1768年にネパール王国を打ち立てた〔デエ『チベット史』、p.170〕。この間、ネパールとチベットとの交易は遮断され、ブータンの通路がネパールの通路に取って代わっていた〔。 1775年、プリトビ・ナラヤンの息子プラタープ・シンハ・シャハの治世、ネパールはチベットと交易協定を締結した〔佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.502〕〔佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.504〕〔。その協定では両国の銀貨の純度は同等であることや、ケルン、クティ以外のルートに金銀を運ばないことが定められた〔〔。 だが、チベット側は粗悪なマッラ銀貨の使用に固執し続け、ネパールは自国のゴルカ銀貨との交換を主張し続けた〔。そのうえ、ケルン、クティではネパールが高率の関税を徴収したため〔、チベットはシッキム経由の新しい交易ルートを開拓していた〔佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.505〕。ネパール側はこれらを協定違反としチベット側に抗議したが、チベット側は応じず、結果的に両国の関係は悪化の一途をたどった〔。 また、ネパールの交渉相手であったチベット政府のタシ・ラマが没し、2人の息子の間で相続問題が生じ、兄が弟のシャルマパ・ラマへの遺産分割を拒否した〔〔デエ『チベット史』、pp.170-171〕。そのため、シャルマパ・ラマはネパールへと逃げ、チベット側はその引き渡しを要求したが、ネパールは引き渡しを拒否した〔デエ『チベット史』、p.171〕。これにより、両国の関係は急速に悪化し、ついにチベットはネパールと断交した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「清・ネパール戦争」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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