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清 俊彦(せい としひこ、1945年9月3日 - )は、宮崎県出身の元プロ野球選手。西鉄ライオンズ、近鉄バファローズで活躍した投手である。 ==来歴・人物== 高鍋高校では、1961年、1年生の時に控え投手として夏の甲子園に出場。1回戦の秋田商戦でリリーフに起用されるが0-1で敗退。2年生でエースとなり、翌1962年の春の選抜に出場するが、1回戦で中塚政幸のいるPL学園に敗れる。同年夏は県予選決勝で宮崎大淀に0-1で惜敗、1963年夏も同じく県予選決勝で高橋博、小川亨のいる宮崎商に敗れた。 1964年、西鉄に入団。若林忠志ヘッドコーチの指導でコントロールをつけ、1年目から11試合に先発するが、やはり安定感を欠き、翌年は主に中継ぎとして起用された。1966年には稲尾和久の衰えもあり先発陣に加わる。開幕から好調を維持し、同年6月12日には、小倉球場の近鉄戦でノーヒットノーランを達成するが、シーズン5勝止まりに終わり、翌年も4勝と今一つ伸び悩む。 1968年、高木喬、菊川昭二郎とのトレードで近鉄に移籍。1年目から先発四番手に食い込み6勝を挙げる。1969年には18勝を記録し、その後も3年連続で2桁勝利するなど、鈴木啓示に次ぐエース格として活躍する。その間、1969年には最高勝率のタイトルを獲得、1972年にはチーム最高の19勝を挙げ、8月に3試合連続完封(16日東映戦、22日西鉄戦、27日南海戦)〔週刊ベースボール、2011年6月27日号、P.95〕、最優秀防御率のタイトルを獲得する。1969年、1970年にはオールスターゲームに出場した。 しかし近鉄が最下位に転落した1973年は清の投手成績も急降下。太田幸司、井本隆など若手投手の台頭もあって徐々に出番が減り、1976年に阪神タイガースに金銭トレードで移ったが、シーズン半ばで引退した。引退後はラジオ大阪で野球解説者を務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「清俊彦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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