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清原 淳平(きよはら じゅんぺい、本名は非公開、1932年3月23日 - )は東京都出身の社会活動家。 ペンネームを用いたのは最初の著書「この教育をどうする―人間性崩壊への挑戦」を上梓した1978年当時、3人の息女がみな小学生であったため、学校で子供に影響が及ぶことを心配し、「清原淳平」なるペンネームで著書を上梓したことに始まり、以来、40年以上、ペンネームで社会活動を続けている。政治・経済・哲学・教育・憲法改正学など各分野にわたり、社会活動家でもある。 現在は公益財団法人協和協会専務理事、時代を刷新する会専務理事、新しい憲法をつくる国民会議(自主憲法制定国民会議)会長。 == 経歴 == ; 大学時代 1956年、早稲田大学の社会科学課程を卒業。卒業論文は「第二次世界大戦原因論」。それが、勝村茂指導教授(政治学)に認められ、大学院進学を勧められた。清原は、当時、まだ戦後の経済疲弊期であったので、あえて希望し早稲田大学大学院商学研究科の「世界経済専攻」へ進学した。清原は、当時マルクス経済を専攻する院生が多い中にあって、あえて近代経済学、特にケインズ、サミュエルソン、そして経営学ではドラッカーを学んでいる。 1958年3月、世界経済課程を修了して商学修士。引き続いてその博士課程に進学。大学院では4年間かなり上位の成績で、それまでに単位のほとんどを履修し、あと1科目を残すのみであったが、5年目に入った時、亡父が生前、事業の関係で西武の創業者堤康次郎会長(元衆議院議長)と交際があったことから、西武の五坪茂雄顧問(元衆議院議員)の勧めがあり、大学院で学んだ経済学を実際に活かせるのではないかと考えて、堤康次郎邸に付属する会長秘書室に勤務した。 ; 西武創業者・堤康次郎総帥秘書室時代 秘書役というのは、初め期待した学問を活かすようなものではなく、例えば、3日に1夜は泊まり込む。泊まりではなくても、最終電車で帰って始発電車で出勤すると言うことで、毎日4時間とは眠れなかったと聞く。ただし、西武では、決して悪いことばかりではなく、堤康次郎総帥(内部では大将と呼ぶ習わしがあった)が、日本一の土地持ちになった方式を学ぶこともできた。また、日本最高の人物にお目にかかる機会を得た。それは、堤康次郎元衆議院議長が、吉田茂元総理と当時現職の岸信介総理とを尊敬していて、月に1回程度、箱根の湯の花プリンスホテルで懇談会を催した。清原は、特に堤会長から指名され、これにほとんどお伴したとのこと。毎日4時間とは寝れない生活であったため、肋膜炎と診断され、西武を退職。清原は、これにこりて以後、秘書経験はないという。(世界日報 2010年1月25日~2010年1月26日掲載の記事による) ; 岸信介元総理の設立にかかわる4団体の執行役員を命ぜられる 1978年11月、岸信介元総理からお呼び出しを受け、岸総理が1974年に設立した「財団法人協和協会」が、実務執行者に人を得ず、本格活動に入れないでいるので、当団体の常務理事兼事務局長になってくれ、と委嘱される。 しかし、高邁な仕事なので辞退したが、岸信介元総理から「執行を任せる、私が後ろ盾になる」とのお言葉を受け、決意して就任する。当時45歳だったという。 ; 「時代を刷新する会」を政治団体登録する 1981年岸信介会長に財団法人協和協会の姉妹団体として、学者・技術者・教員など専門家によって構成される団体を作って頂きたいとお願いし、財団法人協和協会とは法人格を異にする「時代を刷新する会」を設立し、岸信介会長から執行を命ぜられる。現在、専務理事を務める。 ; 「自主憲法期成議員同盟」と「自主憲法制定国民会議」の実務執行を命ぜられる 1979年1月、岸信介元総理から、戦後ずっと念願されていた憲法改正の運動団体、「自主憲法期成議員同盟」と「自主憲法制定国民会議」の事務局も兼務してくれ、と委嘱されたが、財団法人協和協会の会員に政・財・官・学の有力者が150人ほど入会し、さらに300人までもってゆきたいので手一杯と申し上げたが、「君なら出来るよ」とおだてられ、やむなく、この2団体の事務局をお引き受けることとなった。「自主憲法制定国民会議」の方は現在、会長を務めている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「清原淳平」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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