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藤原 清衡(ふじわら の きよひら)は、平安時代後期の武将で奥州藤原氏初代当主。 == 生涯 == === 出自 === 陸奥国(後の磐城国)亘理郡の豪族・藤原経清と陸奥国奥六郡を治めた俘囚長・安倍頼時の娘の有加一乃末陪の間の子として生まれる〔母は有加一乃末陪というのが通説だが、頼時の娘には有加一乃末陪の他に、中加乃末陪と一加一乃末倍が記録されており、経清との結婚時期や前九年の役終了時には若かった年齢を考えれば、末娘と考えられている一加一乃末倍の可能性も否定できない。〕。幼名不詳〔東北大教授佐佐久監修『亘理郷土史』によると権太郎。また、研究者の間では、清衡の曾孫の国衡の幼名が信寿丸、同じく曾孫である泰衡の子(清衡の玄孫)の幼名が万寿丸であることから、清衡の幼名も「○寿丸」ではないかという推測もある。〕。なお、藤原経清は、藤原北家の藤原秀郷(俵藤太)の子孫とされており、1047年(永承2年)の五位以上の藤原氏交名を記した『造興福寺記』に、「経清六奥」(六奥は陸奥の意)と名前が見えていることから、当時藤原氏の一族の係累に連なる者と中央の藤原氏からも認められていたようである。 父・経清は前九年の役で源頼義に反旗を翻し安倍氏に味方したが厨川の戦いで敗れた安倍氏と最後をともにした。この時清衡は七歳であった。敵将の嫡男であったので本来は処刑される運命にあったが、母が安倍氏を滅ぼした敵将である清原武則の長男清原武貞に再嫁することになって危うく難をのがれ、連れ子の清衡も清原武貞の養子となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原清衡」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Fujiwara no Kiyohira 」があります。 スポンサード リンク
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