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清国忠雄 : ミニ英和和英辞書
清国忠雄[しんこく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

清国 : [しんこく]
 (n) China under the Manchus
: [くに]
 【名詞】 1. country 
: [おす]
 【名詞】 1. male (animal) 

清国忠雄 ( リダイレクト:清國勝雄 ) : ウィキペディア日本語版
清國勝雄[きよくに かつお]

清國 勝雄(きよくに かつお、1941年11月20日 - )は、秋田県雄勝郡雄勝町(現・湯沢市)出身で荒磯部屋(後に伊勢ヶ濱部屋)所属の元大相撲力士。最高位は東大関。本名は佐藤 忠雄(さとう ただお)。現役時代の体格は182cm、133kg。得意手は左四つ、寄り、押し。
十両玉ノ国、元関脇玉乃島の兄弟は甥。二男の嘉由生は2009年3月に落語家の林家木久扇に入門して林家木りん(はやしや きりん)の名前を貰う。
== 人物 ==
中学3年時に同郷の元横綱照國の荒磯部屋から熱心に勧誘され、夏休み中の体験入門だけのつもりで上京したが両親の同意や住民票の移転など根回しされたことで観念して入門を正式決定。1956年9月場所初土俵。横綱・大鵬とは同期だった。のち親方の名跡変更(6代伊勢ヶ濱)で伊勢ヶ濱部屋所属となった。まだ幕下時代の1962年5月場所、「梅ノ里」より「清國」に改名(「清」は5代伊勢ヶ濱の元関脇・清瀬川より、「國」は師匠の照國より)。素質はあるにもかかわらず当初は相撲が嫌いであったためあまり稽古熱心とはいえず師匠から「運ちゃん」〔現役力士の自動車運転が当時認められていたため、取的時代には実際に部屋の運転係を務めていた。〕というありがたくないニックネームを付けられていたが、後輩の淺瀬川に十両昇進で先を越されて発奮し、そこから稽古に打ち込み、1963年5月場所に十両に昇進、3場所で十両を突破して同年11月場所に新入幕を果たした。その翌場所の1964年1月場所は初日から14連勝、横綱・大鵬とともに勝ち放し、同期生の優勝決定戦かと騒がれた。しかし、千秋楽に関脇・大豪に当てられて敗れ14勝1敗、優勝はならなかった。この活躍から北の富士若見山と「若手三羽烏」と称された。なおこの場所で前場所優勝の大関・栃ノ海の横綱昇進がかかっていたが清國のよもやの大健闘で2敗ながらも次点にすらもなれないという珍事が起きたが、場所後栃ノ海は横綱に推挙されている。直近場所が優勝、相星、次点いずれにもあてはまらないというケースは年6場所制以後ではこのケースのみである。翌3月場所には前頭13枚目から一気に関脇に昇進し、その後も上位に定着、1967年11月場所からは三役を10場所連続で務め大関候補として評判になった。1969年5月場所で12勝3敗の好成績を挙げ、場所後に大関に昇進した。
新大関で迎えた1969年7月場所では千秋楽に大鵬との相星決戦を制して12勝3敗の成績を挙げ優勝決定戦に進出、前頭5枚目・藤ノ川を破り初優勝を果たした。新大関の優勝は1949年10月場所の千代ノ山以来の快挙、この場所横綱・柏戸が引退して大鵬の一人横綱となっていただけに一気に横綱昇進の絶好の好機となったが、翌9月場所2日目の小結・麒麟児(後の大関・大麒麟)戦で頸椎を故障。それが結果的には大関どまりになる原因の一つとなった。
きちんと両手をついて立合いを行う力士であり、1970年前後の、手をつかないことが常態化していた時代に、清國の立会いは賞賛された。また、それを生かした〈後の先〉の立合いで横綱・玉の海に勝ったこともある。腕力が非常に強く、それを生かしたおっつけ小手投げは大鵬はじめ相手力士の腕を痛めることがたびたびあり「壊し屋」の異名をとった。〔ベースボールマガジン社『大相撲戦後70年史』18ページ〕時折もろ差しになられても両腕(かいな)で閂(かんぬき)に極め、豪快に極め出すこともあった。四つは左でも右でもとれる『なまくら四つ』でもあった。錦絵から抜け出したような風貌で「綺麗なお相撲さん」として巡業では大鵬以上の人気があった。なお、横綱・北の富士との幕内通算対戦は52回を数え、当時の大相撲歴代最多記録だった(2015年現在の史上最多記録は横綱・武蔵丸-大関・貴ノ浪戦の58回)。
現役末期は心臓疾患に苦しみ、これ以上現役を続けると命に関わると判断した末に1974年1月場所中に引退。その後はしばらく年寄楯山を襲名していたが、1977年の師匠・伊勢ヶ濱の死去により7代伊勢ヶ濱を襲名して部屋を継承した。親方としては前頭筆頭まで出世した若瀬川らの関取を輩出し、日本相撲協会では理事として、主に地方場所部長(九州場所担当)として活躍した。就任当時は最年少理事(当時32歳で、歴代2位)〔『週刊新潮』2013年2月14日号 p.20〕。伊勢ヶ濱継承期間は最も長い35年だった。
親方時代は様々な災難に遭遇した。1985年8月12日には前妻と長男、長女を日本航空123便墜落事故で失い〔清國が東北地方へ地方巡業していたため、その間を利用して大阪出身の前妻が子供を連れて実家へ里帰りするため搭乗していた。〕、その後再婚して1989年に二男・嘉由生(林家木りん)をもうけるも、現妻を追い出そうとした親方の近親者が週刊誌に捏造記事を売り、現妻の名誉を傷付け、さらに文京区白山の土地5億円を詐欺により詐取されたりした。後に本事件は詐欺を行った者が逮捕され、現妻の名誉も回復した。ホテルを転々とするなど部屋運営に苦労したが、夫人の尽力もあって千葉県柏市台東区に部屋を創設した。
1996年2月に理事から役員待遇に退いたが、2004年9月に週刊ポスト誌上で一門の総帥でありながら甥の玉乃島〔義弟のタートル岡部と清國は不仲であり、特に清国は岡部の妻でもある妹と折り合いが悪いという。〕をはじめとした現役力士の無気力相撲を批判したことで役員待遇を解かれ、同年11月場所より監察委員に就任した。
2006年11月場所中に定年退職。伊勢ヶ濱部屋は部屋付きの10代・若藤(元前頭・和晃)が清國と名跡交換して、8代・伊勢ヶ濱を襲名し部屋を継承。清國自身は、11代・若藤を1日だけ襲名し定年を迎えている。しかし、この継承は暫定的なものであり8代も半年ほどで定年を迎えるため、直ちに後継者擁立を進めたが、適任者が見つからず翌2007年1月場所後に一時的に伊勢ヶ濱部屋は閉鎖となった。8代・伊勢ヶ濱は定年直前に清國と名跡交換を行ったため、「年寄・伊勢ヶ濱」は再び清國の所有になった。
同年11月、清國は後継に4代・安治川(元横綱・旭富士)を指名し、9代・伊勢ヶ濱を襲名。安治川部屋が部屋名を改称する形で伊勢ヶ濱部屋を再興した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「清國勝雄」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kiyokuni Katsuo 」があります。




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