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清川口の戦い(きよかわぐちのたたかい)は、慶応4年(1868年)の戊辰戦争の中の一つの庄内藩と鎮撫軍の戦い・秋田戦争の戦端になった戦いである。腹巻岩の戦いとも言う。 == 経緯 == === 開戦まで === 慶応4年(1868年)2月村山郡幕領七万四千石が庄内藩預地となり、寒河江に250人余りの庄内藩士が入った。これを皮切りに、庄内藩は山形盆地に進出した。しかし、4月2日奥羽鎮撫総督府軍の進攻を察知し撤退し〔『戊申東北戦争』によれば天童藩家老吉田大八が4月1日仙台から天童に帰着すると柴橋陣代河野俊八を呼び寄せて庄内藩兵の引き揚げを指示したが、庄内藩奉行大島久弥は従わず、総督府軍に同行していた仙台藩執政三好監物が庄内へ使者を走らせたところ大島への引き継ぎを終えた高橋省助に大石田で追いつき、高橋の機転で偽の命令書を大島に届けたため4月2日庄内兵は引き揚げたという。〕、その夜薩摩・長州・仙台・天童など400名余の新政府軍が寒河江に入った(柴橋事件)。慶応3年度の年貢を求めてのことであったが、既に庄内藩が最上川の舟運によって庄内へ運んだ後だった。財政基盤の整っていない新政府にとって、年貢米を押収できなかったことは大きな打撃であり、これが朝廷の公領を侵害したとして庄内征討を決定された一因になった〔ただし幕府領800万石が静岡藩70万石に減封されるのは同年5月のことである。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「清川口の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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