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山本 周五郎(やまもと しゅうごろう、1903年(明治36年)6月22日 - 1967年(昭和42年)2月14日)は、日本の小説家。本名、清水 三十六(しみず さとむ)。 == 年譜 == * 1903年(明治36年)6月22日、山梨県北都留郡初狩村(現:大月市初狩町下初狩)に生まれる〔『曲軒・山本周五郎の世界』、p.6〕。父は清水逸太郎、母は「とく」(旧姓・坂本)〔『曲軒・山本周五郎の世界』、p.6〕。周五郎は長男(弟の潔、義妹の末子がある。〔『歴史読本』編『山本周五郎を読む』『歴史読本』編集部 2012年 新人物往来社 298ページ〕)〔『曲軒・山本周五郎の世界』、p.6〕。本籍地は北巨摩郡大草村(韮崎市大草町)で、周五郎は後に自らの出生地を同地と語っている〔『曲軒・山本周五郎の世界』、p.8〕。実家は武田の遺臣で、北多摩の大草村若尾(現韮崎市大草町若尾)に帰農した御蔵奉行清水大隅守政秀の後裔であろうとの言い伝えもある〔『歴史読本』編『山本周五郎を読む』『歴史読本』編集部 2012年 新人物往来社 298ページ〕。 * 1907年(明治40年)、山梨県では8月21日から降り続いた大雨により明治40年の大水害が発生する。大水害では甲府盆地東部の笛吹川流域を中心に多大な被害を出し、郡内でも初狩村が壊滅的被害を受け、周五郎の一家は大月駅前に転居していたため難を逃れるが、大水害で祖父の伊三郎、祖母の「さく」、叔父の粂次郎、叔母の「せき」を失っている〔『曲軒・山本周五郎の世界』、p.6〕。大水害後、一家は北豊島郡王子町豊島(現:東京都北区豊島)に転居する。 * 1910年(明治43年) :7歳で東京府北豊島郡王寺町・豊島の豊島小学校に入学した。8月10日、荒川が氾濫し住居が浸水し大被害を受ける。同年秋から神奈川県横浜市久保町(現・神奈川県横浜市西区久保町)に転居。西戸部小学校に転校した。翌1911年(明治44年)学区の編成替えで横浜市立尋常西前小学校2年に転学した。父は繭の仲買を営んでいた。また、輸入用麻製真田紐の巻き取り、生糸の仲買、小口金融業、小料理店甲子屋の経営、三業組合書記などの職を転々とした〔『歴史読本』編『山本周五郎を読む』『歴史読本』編集部 2012年 新人物往来社 299ページ〕。 * 1911年(明治44年) :4年生の時、担任の先生から小説家になれと励まされ、志望するようになった。以来、学校新聞の責任を命じられたり、6年生の時には、級友の作文・図画を集めて回覧雑誌を作った。自分で雑誌の表紙を描き、扉絵には詩を付けたりした〔『歴史読本』編『山本周五郎を読む』『歴史読本』編集部 2012年 新人物往来社 299ページ〕。 * 1916年(大正5年) :横浜市立尋常西前小学校(現横浜市立西前小学校)卒業。卒業と同時に東京木挽町二丁目(現:銀座二丁目)にあった質店の山本周五郎商店に徒弟として住み込む。 * 1923年(大正12年) :徴兵検査を受けたが、眼力が問題となり丙種合格で免れる。同年9月1日の関東大震災によって山本周五郎商店も被災しいったん解散となる。その後豊橋、神戸に転居。 * 1924年(大正13年) :再び上京。帝国興信所(現:帝国データバンク)に入社。文書部に配属。その後帝国興信所の子会社である日本魂社に転籍。 * 1926年(大正15年・昭和元年) :『文藝春秋』4月号に『須磨寺附近』が掲載されこれが文壇出世作となる。 :10月20日 - 脳溢血で母・とく死去。 * 1928年(昭和3年) :千葉県東葛飾郡浦安町(現:浦安市)に転居。 :10月 - 勤務不良により日本魂社から解雇される。 * 1929年(昭和4年) :東京虎ノ門に転居。 * 1930年(昭和5年) :11月 - 宮城県亘理郡吉田村(現:亘理町)出身の看護婦・土生きよいと結婚。2男2女を儲ける。 * 1931年(昭和6年) :東京馬込東に転居。空想部落と称された馬込文士村の住人となる。尾崎士郎、鈴木彦次郎の両人の推輓で講談社の時代小説を書くようになった〔竹添敦子著『「日本婦道記」論』 双文社出版 2015年 99ページ〕。 * 1932年(昭和7年) :『キング』(講談社)に度々時代小説を執筆するようになった。当時の大衆雑誌『キング』は「1928年(昭和3年)」140万部と雑誌界の首位にあった〔『キング』は、「天皇制ナショナリズム、それも、モダニズムと立身出世・修養主義を加味した新しいナショナリズムを思想的主柱とし(中略)批判力に乏しい民衆を意のままにファシズムに動員した先導者、ファシズムへの地ならしをした極めて保守的なジャーナリズム」との評価もある(竹添敦子著『「日本婦道記」論』 双文社出版 2015年 101ページ)〕。 :5月 - 「だだら団兵衛」執筆、それまでは博文館の『少年少女 譚海』を中心に少年探偵ものや冒険活劇を書いていた〔竹添敦子著『「日本婦道記」論』 双文社出版 2015年 99ページ〕。 * 1934年(昭和9年) :6月26日 - 中風で父・逸太郎死去。 * 1936年(昭和11年)33歳、講談社からは新進作家としてあつかわれ、講談社発行の『婦人倶楽部』・『少年倶楽部』・『講談倶楽部』・『少女倶楽部』などのほとんどの雑誌に作品が掲載された。当時の周五郎は、むしろまじめで几帳面な、そしてコツコツと鍛練を重ねる、真摯な作家であった〔竹添敦子著『「日本婦道記」論』 双文社出版 2015年 103ページ〕。 :博文館が、周五郎の「大人向け」作品を掲載しだした。それまではほとんどが少年少女小説であった〔竹添敦子著『「日本婦道記」論』 双文社出版 2015年 102ページ〕。 * 1942年(昭和17年)39歳 :『婦人倶楽部』に各藩の女性を扱う「日本婦道記」(6月から12月までの7回掲載)が企画された。周五郎は3回(「松の花」 *「梅咲きぬ」 *「箭竹」、全くの創作で架空の女性を描いている)担当し、後の4回(すべて実在の人物で世にほどほどに知られている人物)は他の作家が担当した。『主婦之友』の「日本名婦伝」(吉川英治)に倣っている〔竹添敦子著『「日本婦道記」論』 双文社出版 2015年 108ページ〕。 * 1943年(昭和18年)40歳 :第17回直木賞に『日本婦道記』が選ばれるが辞退〔1940年(昭和3年)上半期の第11回芥川賞を高木卓が辞退して、世上騒然たる物議を醸し出している。両文学賞史上、受賞辞退はこの二名だけである。(齋藤愼爾著『周五郎伝 虚空巡礼』 白水社 2013年 294ページ)〕。〔「直木三十五賞『辞退のこと』」が『文藝春秋』(昭和18年9月号)に掲載された。その前文は、「こんど直木賞に擬せられたそうで甚だ光栄でありますが、自分としてはどうも頂戴する気持ちになれませんので勝手ながら辞退させて貰いました。この賞の目的にはなにも知りませんけれども、もっと新しい人、新しい作品に当てられるのがよいのではないか、そういう気がします。新しいとだけでは漠然としすぎますが、とにかくいまの清新なものがほしいとという感じは誰にもあると思う。局外者がこんなことを云うのはおせっかいに類するけれども、新人と新風とを紹介する点にこの種の賞の意味があるので、もちろん在来もそうであったとは思いますが、今後もなおそういうものが選ばれてゆくことを希望したいと思います」である。(齋藤愼爾著『周五郎伝 虚空巡礼』 白水社 2013年 280ページ)〕。〔某評論家は、周五郎が辞退した理由を、当時の周五郎の「主要な作品発表の舞台は、おおむね博文館系の雑誌だったために、博文館への義理立てとでも云った心情から、文藝春秋の文学賞を遠慮したのではないか。そういう律儀な性格がとらしめた、一見、佶屈たる行動」と述べているらしい(木村久爾典著『山本周五郎-馬込時代』の第12章「直木賞を蹴る」による)(齋藤愼爾著『周五郎伝 虚空巡礼』 白水社 2013年 296ページ)。〕。周五郎の年間執筆数の約6割~7割が講談社の雑誌に掲載され、その大半が『婦人倶楽部』の「日本婦道記」であった。この執筆が作家的飛躍に繫がったと考えられている〔竹添敦子著『「日本婦道記」論』 双文社出版 2015年 103ページ〕。 * 1945年(昭和20年) :5月4日 - 膵臓癌で妻・きよい死去(享年36)。 * 1946年(昭和21年) :自宅の筋向いに住んでいた吉村きんと再婚。横浜市中区に転居。 *1948年(昭和23年) :春 - 旅館「間門園」(神奈川県横浜市中区本牧間門51付近)を仕事場とする。 *1959年(昭和34年) :『樅の木は残った』が毎日出版文化賞に選ばれるが辞退する。 * 1961年(昭和36年) :文藝春秋読者賞に『青べか物語』が選ばれるが辞退。 * 1967年(昭和42年) :2月14日 - 間門園別棟で肝炎と心臓衰弱のため死去。享年64(満63歳)。墓所は神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園。戒名は恵光院周嶽文窓居士。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「山本周五郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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