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清水 政勝(しみず まさかつ)は、戦国時代の武将。後北条氏の家臣で、晩年は福井藩士となった。通称は新七郎、のち太郎左衛門。 == 来歴 == 後北条氏の家臣で伊豆国の住人である清水康英の次男。兄に新七郎〔この兄の名を太郎左衛門とするものもある。この人物は駿河国長久保城に在城していたという。〕がいたが、永禄12年(1569年)蒲原城の戦いで武田氏と戦って戦没していたため、その後は嫡男であった。通称の新七郎が兄と同じくするのは、嫡子の位を継承したためと推測されている。 永禄11年(1568年)今川氏救援のために父や兄とともに駿河方面へ出陣。元亀3年(1572年)武田氏の徳川領侵攻に際して大藤秀信とともに援軍として武田軍に参加。三方ヶ原の戦いにも参戦し、敵将の首を素手でねじ折るという荒技をなしたため「ねじ首太郎左衛門」と畏怖されたといわれる。兄と同じく長久保城将を務めたが、後に上野国方面へ転戦し、天正12年(1584年)館林城の長尾顕長を、天正14年(1586年)壬生城の壬生義雄を攻撃しており、天正15年(1587年)には新田金山城に配されて513貫を領した。だが同年の内に駿河国へ戻って葛山・長久保を領し、貫高も7,474貫に加増されている。 天正18年(1590年)小田原征伐では北条軍の武将として出陣。小田原城に籠城して徳川家臣・阿部正吉とその配下の戸沢善右衛門と激戦を繰り広げるなど勇戦して北条氏政に激賞されたという。 北条氏が滅亡すると浪人したが、慶長5年(1600年)結城秀康に招かれて下総国に300石を与えられ、その家臣となった。その時、年齢は60歳ほどであったという。慶長6年(1601年)岩上朝吉ら武勇に優れた諸士とともに、大野城に入って土屋正明に属した。石高は1,025石で、さらに与力分として1,800石が与えられていたという。慶長9年(1604年)子の直英に家督を譲って隠居。隠居領として100石が与えられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「清水政勝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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