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清水 秀雄(しみず ひでお、1918年7月8日 - 1964年3月23日)は、島根県出身のプロ野球選手。ポジションは投手、一塁手、外野手。 == 来歴・人物 == 米子中学校(現米子東高校)ではの甲子園にエースとして春夏連続出場(いずれも初戦敗退)。バッテリーを組んだのは井上親一郎(慶應大-元国鉄主将)だった。中学卒業後は明治大学へ進学し、東京六大学リーグで春期から秋期にかけて、リーグ初の4連覇に貢献した。リーグ通算47試合登板、17勝8敗、防御率1.86、184奪三振。 に南海へ入団すると、3月に初登板無失点勝利を達成したのを始めとして、1年目から二桁となる11勝を挙げ、チームトップ(リーグ11位)となる防御率1.75を記録する。「三振か四球か」と言われた、荒れ球の速球とブレーキのあるカーブを駆使して活躍する〔『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』恒文社、1976年、61ページ〕。この年の270奪三振はリーグ3位であったが、9イニング当たりの奪三振7.89個は2位以下を1個以上引き離して1位となっている。また同年には2度の毎回奪三振を記録しているが、通算かつ1シーズンで2度の達成は清水が日本プロ野球初〔講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」692ページ〕。なお、この年には一塁手としても56試合出場して規定打席に到達し、打者としてもチームトップ(リーグ19位)の打率.227を記録している。同年末に応召し、1941年に中国戦線で腰に対する貫通銃創を受ける。南海に復帰するが、銃創の後遺症によりカーブ主体の軟投派として生き延びることになる〔。 戦後のには松江中学校(現松江北高校)を率いて夏の甲子園でベスト8に進出した。同年はグレートリングに所属していたが、シーズン途中に中部日本へ移籍し、には自己最多となる23勝を挙げ、リーグ7位の防御率1.93記録。との両年とも12勝を挙げて4年連続で二桁勝利を記録。からは大洋ホエールズでプレーし、に通算100勝を達成して同年引退。引退後は米子市朝日町で飲食店を経営した。 野手としても活躍していることからわかる通り打撃が得意で、4番打者を19回務めている。ベテラン外野手が打球を追ってひっくり返りエラーすると、監督でもないのに自分でさっさと外野手を交代させてしまったこともあった。美男子で、ファンが多かった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「清水秀雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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