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清閑寺 : ミニ英和和英辞書
清閑寺[せいかんじ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

清閑 : [せいかん]
  1. (adj-na,n) peaceful 2. quiet 3. tranquility 4. tranquillity
: [ひま]
  1. (adj-na,n) (1) free time 2. leisure 3. leave 4. spare time 5. (2) farewell
: [てら]
 【名詞】 1. temple 

清閑寺 : ウィキペディア日本語版
清閑寺[せいかんじ]

清閑寺(せいかんじ、旧字体:淸閑寺)は、京都市東山区にある真言宗智山派寺院山号は歌中山(うたのなかやま)。本尊十一面千手観音開基(創立者)は紹継。『平家物語』の悲恋で知られる高倉天皇小督局ゆかりの寺院である。
== 歴史 ==
寺伝によると延暦21年(802年)に天台宗の寺として比叡山の紹継法師によって創建されたが後に荒廃〔『山州名跡志』卷之三、清閑寺〕。一條天皇の時代(986年 - 1011年)に播磨守・佐伯公行〔『伊呂波字類抄』では「伊豫守正四位下佐伯朝臣公行」と記されている。〕が鎮護国家の道場として法華三昧堂宝塔、山神堂などを建立し、菅原道真公御作の十一面千手観世音菩薩を本尊に安置して「清閑寺」と号した。なお、『伊呂波字類抄』、『拾芥抄』、『雍州府志』では佐伯公行の創建と記し〔『伊呂波字類抄』長徳2年是歳 『大日本史料』第二編之二 、875頁〕〔『拾芥抄』下 第九諸寺部 洞院公賢編〕〔『雍州府志』巻第四 寺院門上 立命館大学図書館・古典籍閲覧データベース〕、『後法興院記』では桓武天皇の建立とする〔『京都・山城寺院神社大事典』、405頁〕。
長徳2年(996年)に一條天皇により御願寺(勅願寺)に列せられ〔、清閑寺法華堂の名の下、天台宗の寺院として維持されていたが、鎌倉時代後期には後の東寺二ノ長者・道我僧正〔『徒然草』の作者・吉田兼好の歌友で『徒然草』第160段に「清閑寺僧正」として登場する。〕、南北朝時代には東寺長者21世・賢俊僧正が住持しており、この頃までに天台宗から真言宗転じたとされる〔『京都・山城寺院神社大事典』によると、性盛による復興と同時に真言宗へ改宗したとされる。〕。最盛期の寺域は東西5・南北6町と広く〔〔メートル法表記に換算すると東西約545m、南北約654mに相当。〕、清水寺と並ぶほどの大寺院だった。法相宗興福寺派(南都)の清水寺と天台宗(北嶺)の末寺だった清閑寺とは寺領の境界争い(境相論)による衝突が生じており、『皇帝紀抄』建暦3年(1213年8月3日條、『吾妻鏡』同年8月14日條には、清閑寺領内に清水寺が堂宇を建立したため、延暦寺の衆徒百余人が清水寺を焼き払うため長楽寺に集会した旨の記述があり〔「皇帝紀抄 」『群書類従』第貳輯、経済雑誌社、381頁〕〔『吾妻鏡 』卷二十 『吾妻鏡 吉川本』中卷、国書刊行会、90頁〕、翌建保2年(1214年8月13日の裁定により、その地を清水寺の所領とする代わりに同年12月20日に清水寺の前執行・法橋快玄が還俗させられて佐渡国配流されている〔「仁和寺御日次記 」『続群書類従』第29輯下 雑部、続群書類従完成会、333頁〕。なお東山区には「清閑寺」を冠する町名(旧愛宕郡清閑寺村)が幾つか存在するが、地名は清閑寺に由来し、かつては全村が清閑寺の境内地だったが、中世、寺運の衰退により分轄されている〔『角川地名大辞典 26京都』上巻、828頁〕。
南北朝時代の建武3年(1336年6月8日足利尊氏が清閑寺執行及び衆徒に対して新田義貞の軍勢を誅伐するため、京都の東の入口である久々目路(渋谷街道)と阿弥陀峯(阿弥陀ヶ峰)を警固するよう命じるなど〔『室町家御内書案』建武3年6月8日條 『大日本史料』第六編之三 、513頁〕、かなりの勢力を誇っていた。尊氏自身も観応2年(1351年1月16日に当寺で天下泰平武運長久を祈願し〔『伊勢家書』觀應2年1月16日條〕、文和4年(1355年2月18日4月26日の両日、遊びに訪れている〔『賢俊僧正日記』文和4年2月18日條、同4月26日條〕。室町時代には当寺の塔頭である法華堂、大勝院、南地院が醍醐寺に属したほか〔『醍醐寺文書』「醍醐寺方管領諸門跡等目録」応永6年3月22日條〕、三宝院僧正山荘も寺領内に存在した〔『中古京師内外地図 』(国際日本文化研究センター所蔵地図データベース)〕。東山山中に威容を誇った清閑寺も、応仁の乱伽藍を焼失・破却されて荒廃したが〔『碧山日録』應仁2年8月7日條 『大日本史料』第八編之二 、7頁〕、慶長年間(1596年 - 1615年)に根来寺の性盛法師(後の長谷寺2世化主)により再興されて本堂が再建され、享保15年(1730年)には鐘楼が再建されている。なお、江戸時代は因幡堂平等寺の兼帯寺だった〔『国史大辞典』第8巻、200頁〕。
明治維新後の明治4年(1871年)、社寺領上知令(明治4年1月5日太政官布告)によって寺領の大部分が上地として官有地に編入され、寺運は著しく衰退したが、昭和初期に境内の整備が行われて現在に至る。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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