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済南事件(さいなんじけん)は1928年(昭和3年)5月3日、中国山東省の済南における、国民革命軍の一部による日本人襲撃事件、および日本の権益と日本人居留民を保護するために派遣された日本軍(第二次山東出兵)と、北伐中であった蒋介石率いる国民革命軍(南軍)との間に起きた武力衝突事件。藤田栄介青島総領事は、南軍による組織的に計画された衝突と述べている〔服部龍二『東アジア国際環境の変動と日本外交 1918-1931』有斐閣、2001年、203頁〕。事件の中で、日本人居留民12名が殺害され、日本側の「膺懲」気運が高まって日本軍が3000人以上の中国人を殺害した。〔ゆうのページ“済南事件” 〕 また、日本軍により旧山東交渉公署の蔡特派交渉員以下16名が殺害されたが、中国側はこれを重く見て、日本軍の「無抵抗の外交官殺害」を強く非難した。さらにこれを機に、日本軍は増派(第三次山東出兵)を決定した。 衝突はいったん収まったものの、5月8日、軍事当局間の交渉が決裂。日本軍は司令部と城壁に限り、砲撃を開始。安全地帯と避難路を指定したため、南軍は夜陰に乗じて城外へ脱出し北伐を続行した。5月11日、日本軍は抵抗なく済南を占領した。中国側によれば、その際、中国軍民に数千人の死者が出たとされる。 岩崎芳夫によると、蒋介石は後にこの事件を日本軍による北伐の妨害であったと非難したとされている〔岩崎芳夫「日本人として誇りを持って生きろ」(自由主義史観研究会) 〕。 == 当時の状況 == 当時、中国は南軍と北軍に別れて内戦状態にあり、治安は悪化していたが、済南は主要な商業都市であり、日本人を中心として多くの外国人が居住していた。膠済鉄道は日本の借款鉄道であり、同鉄道沿線の鉱山は日中合弁会社が経営するなど、山東省には日本の権益も存在した〔服部龍二編『満州事変と重光駐華公使報告書』〕。1927年(昭和2年)末の外務省調査によれば、山東省における日本人居留民数は総計約16,940人で、そのうち青島付近に約13,640人、済南に約2,160人であり、投資総額は約1億5千万円に達していた。 第1次国共合作の終了により北伐は頓挫したが、1928年(昭和3年)1月上旬、ふたたび蒋介石が国民革命軍の総司令に就任し、2月、蒋介石は馮玉祥、閻錫山と北伐に関する協議を行って北伐軍を編成し、4月7日、国民党は北伐を宣言した。4月12日、韓荘、台児荘の線を占領していた山東軍は敗れ、戦乱はふたたび山東省に及ぼうとした。 松井石根参謀本部第2部長の談話によると、 山東出兵の第一の理由は、南軍総司令蒋介石の地位の変動である。今の南軍は去年の南軍と大いに組織を異にし、南軍の内部にはいわゆる客軍が多くを占めており、蒋介石の命令は、客軍の武将に阻止されて徹底されない。第二の理由は、南軍の素質が悪くなり、これに伴う危険が増加したことである。今日の南軍は大部分が速成の兵で、いわゆる兵匪と何ら変わりない軍隊であり、いつ本性を現して不埒を働くかわからず、実に危険である。第三の理由は、南軍の内部に依然共産系が残存していることである。昨年の南京事件に懲りて南軍幹部でも極左共産党系の淘汰を計ったので共産党系の色彩は大いに緩和されたが、特に若い者の間には共産党の空気が深くしみわたって手がつけられない状態で、ある軍の如きは現に公然とロシア人の教官または指揮者を有し、盛んに共産主義の宣伝をなし、「帝国主義打倒」を振りかざして常に日本を敵視している〔高倉徹一『田中義一伝』〕。 約1年前の南京事件と漢口事件のような、蒋介石率いる北伐軍の兵士や中国人による略奪、暴行などが済南に起こる危険が迫ったので、日本側は日本の権益と居留民の保護を理由として同年4月下旬に出兵した(第二次山東出兵)。当時の主要新聞の社説は、内政干渉にならないようとの憂慮を表明したが、ほとんどが出兵やむなしとするものであった。支那駐屯軍の天津部隊3個中隊(臨時済南派遣隊)と内地から第6師団の一部が派遣され、4月20日午後8時20分、臨時済南派遣隊が済南到着、4月26日午前2時半、第6師団の先行部隊の斎藤瀏少将指揮下の混成第11旅団が済南に到着した。北軍援助の誤解を避けるため、第6師団(師団長・福田彦助中将)の主力は青島に留まっていたが、4月29日、南軍によって膠済鉄道と電線が破壊されたため、青島を出発し、鉄道破壊個所を修理しながら進み、5月2日午前11時半に済南に到着した。この結果、済南に集結された兵力は、3539人となった〔井星英「昭和初年における山東出兵の問題点」〕。 4月21日、臨時済南派遣隊は「臨時済南派遣隊警備計画」〔第一期(戦況著しく切迫し人心動揺甚だしきに至りたる時)と第二期(動乱暴動の徴ある時)の二段階の状況を想定し、商埠地を警備区域、歩哨戦、複郭に区分し、第一期にあっては商埠地域外居住の男子を警備区域内に移動させ、老幼婦女病者を総領事館、民団、学校、済南病院の「複郭」に収容、第二期にあっては居留民全員を総領事館以下に庚申倶楽部を加えた「複郭」に収容するというもの〕を作成し、この警備計画に基づいて居留民保護にあたった。4月27日、斎藤瀏警備司令官は前警備計画を修正した「混成第十一旅団警備計画」を作成した。修正点は警備区域を商埠地全体の約8割に縮小し、歩哨線を守備区域として拡大し、守備区域への中国軍兵士の進入を禁止したことであった。4月29日、北軍退却部隊の商埠地内外を通過する数が増加し、北軍と警察の警備力は急速に衰えたため、斎藤警備司令官は29日午後一時に各地守備隊を第一期警備の部署に就かせ、午後9時半に守備区域の所要工事(土嚢、立射散兵壕、拒馬、鉄条網などの設置)を開始させた。窮民による略奪が起こったが、日本の警備地区内ではほとんど起こらなかった〔〔宮田昌明「再考・済南事件」〕。 5月1日に済南が北軍の手から南軍の手に落ちると、日本国旗侮辱や反日ビラ貼付などで紛議が頻発し、また囚人が解放されて、市内は緊迫の様相を呈するに至った。5月2日午前、南軍の総司令蒋介石から斎藤瀏警備司令官に、治安は中国軍によって確保することを保障するので日本軍は撤去して欲しいとの要望がなされ、斎藤警備司令官は福田彦助第6師団長に図ることなく、守備区域のみを廃止し、防御設備をすべて撤去させ、「済南における治安維持は自今南軍総司令官蒋介石に一任す」なども口頭で補足した。5月3日、福田師団長はすでに実効済みだったので、これを黙許した〔。守備区域の撤廃と防御設備の撤去が事件を誘発したわけではない。問題は国民革命軍の排日傾向と、前年の南京事件にも関わったと目される賀耀組麾下の第40軍が済南に到着していたことを、日本側が軽視していた点にあった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「済南事件」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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