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長谷川 泰(はせがわ たい/やすし、天保13年(1842年)6月 - 明治45年(1912年)3月11日)は、幕末期の越後長岡藩軍医、「済生学舎」(日本医科大学の前身)創立者、内務省衛生局長、衆議院議員。従三位勲三等。幼名は多一、字は子寧、通称は復庵。号に蘇山・蘇門道人・柳塘・八十八峰外史・信水漁夫など。綽名は「ドクトル・ベランメー」〔服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)236頁〕。 == 経歴 == 越後国古志郡福井村(現・新潟県長岡市福井町)で長岡藩医漢方医・長谷川宗斎(春)の2男1女の長男として生まれる。幼名は太一(多一)、長じて泰一郎、泰と称し、蘇山・蘇門同人・柳塘などの号を用いた。はじめ、良寛と親交のあった鈴木文台が主宰する漢学塾長善館で漢学を、鵜殿春風に英学、父宗済の下で漢方医学を弟子たちと共に学ぶ。文久2年(1862年)江戸に出て坪井為春(芳州)に英語、西洋医学を学ぶ。その後、転じて佐倉藩の佐藤泰然の順天堂に入門して長崎でポンペから外科手術学を修得して帰ってきた佐藤尚中に西洋医学を学び、特にフーフェランドの内科書 ''Enchiridion Medicum''の巻末にある「医学必携」に感銘し、「済生救民」思想を体得する。慶応2年(1866年)松本良順の幕府西洋医学所で外科手術を修め、慶応3年(1867年)に句読師となる。慶応4年(1868年)戊辰戦争の勃発により、北越戦争で河井継之助に三人扶持で雇われ長岡藩に藩医として従軍し、河井継之助の最期を看取った。 維新後、順天堂時代の先輩相良知安の弟で同窓でもある友人相良元貞の推薦で、明治2年(1869年)大学東校少助教、明治3年(1870年)大助教、明治4年(1871年)ミュルレル、ホフマンについてドイツ医学を学ぶ。次いで明治5年(1872年)9月14日一大学区医学校の校長に就任するも同年10月8日、先輩相良知安に席を譲り校長心得となる。明治7年(1874年)8月27日長崎医学校校長に就任。征台の役に伴い長崎医学校が廃校となると辞して、学生を東京医学校に転学させた。明治8年(1875年)12月27日東京府知事から済生学舎開業願が許可され、明治9年(1876年)4月本郷元町1丁目66番地に西洋医の早期育成のための私立医学校済生学舎(後に東京医学専門学校済生学舎、日本医科大学の前身)を開校する。 一方で長谷川泰は、東京府病院長・東京癲狂院長・避病院院長・脚気病院事務長・警視庁医長など多くの役職を兼任すると同時に、1890年に始まる第1回衆議院議員選挙から議員を3期、後藤新平の後を受けて内務省衛生局長(1898年3月から1902年10月)、日本薬局方調査会長(1900年4月から1902年7月)等をも務める。 衆議院議員としては、1891年から1892年にかけて「関西にも大学を造るべし。東京大学一校のみでは競風が失われる。」と予算委員会で提言し、政府は3年後その準備に着手し、1897年に京都帝国大学が設立される。開会式で総長の木下広次は長谷川泰の功績を讃え、2年後の医学部開設に当って猪子止戈之助病院長は予算不足を長谷川泰に訴え、長谷川泰は文部省に掛け合い、聖護院近くの2万坪を買収させ、医学部および付属病院を造らせている。また、1893年には北里柴三郎のために大日本私立衛生会付属伝染病研究所設立の演説を度々行って実現させたり、下水道法制定(1900年)などに尽力した。 1912年、大腸狭窄症(大腸癌)のため東京市本郷区本郷元町の自宅で死去〔服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)236-237頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長谷川泰」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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