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渋川氏(しぶかわし)は、日本の氏族(武士)。清和源氏義国流で足利氏の一門。室町時代に肥前、備前、備中、安芸、豊前、摂津などの守護職に任ぜられ、また九州探題職を世襲した。 足利将軍家御一家の家格を有した他、一族は九州、関東、中国など各地に点在した。 == 概要 == 上野国渋川郷(現在の群馬県渋川市)には、もともと渋川氏と称する一族〔出自不明、在庁官人系か。源頼朝に渋河五郎兼保が従い御家人となっている。比企能員の変では比企側についた刑部兼忠が討死した。泉親衡の乱では陰謀に参加した六郎兼守(兼忠の子)が和歌を詠んで源実朝に死刑を赦免されたが、和田合戦で渋川一族は和田側につき没落した。赦免された兼守も承久の乱で宮方につき討死し、以降の消息は不明(久保田順一『中世前期上野の地域社会』岩田書院、2009年)。〕が平安時代末期から領主として存在したが、和田合戦で没落して欠所となっていた。 鎌倉幕府の有力御家人足利泰氏には、初め正室として北条(名越)朝時の娘があり、その間に家氏と兼氏が生まれたが、後に泰氏はこれに替えて北条得宗家の時氏の娘を正室に迎え、その間に生まれた利氏(のち頼氏)を嫡子としたため、長子の家氏は陸奥国斯波郡(紫波郡)を領して別家を立て、その子孫は室町幕府の有力守護大名斯波氏となった。次子の兼氏は、欠所となっていた上野国渋川郷を領し、新たに源姓渋川氏を興して義顕と改名した。家氏も義顕もともに北条時氏の子阿蘇為時(執権北条時頼の弟)の娘を正室に迎えている。 このように渋川氏は斯波氏とともに足利氏嫡流から外れたとはいえ、これに準じる血筋で御家人として別家をなしたため、足利一門諸家の中でも高い家格を有した。 義顕の曾孫である渋川義季は、妹が足利直義の正室であり、尊氏・直義兄弟の六波羅探題攻略に従う。建武の新政下で鎌倉将軍府が設けられると直義に属してこれに出仕し、将軍府の重臣となった。建武2年(1335年)7月北条時行が反建武政権の兵を挙げ鎌倉に進撃する(中先代の乱)と、義季はこれを討つべく出陣したものの敗れ、22歳で自害した。 室町幕府2代将軍足利義詮の正室渋川幸子は義季の娘で、その弟直頼は備後国御調郡に所領を得た。直頼の子義行(母は高師直の娘)は備後守護に任命され、さらに南朝方の盛んな九州を平定するべく九州探題に抜擢されたが、その勢いの前に為すすべなく、ついに九州へ上陸すること無く探題職を更迭された。義行の後の渋川氏は、満頼系と満行系の二流に分かれる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「渋川氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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