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渋川 満頼(しぶかわ みつより)は、室町時代前期から中期の武将、守護大名。室町幕府九州探題、備中・摂津・安芸・肥前守護。九州探題渋川義行の次男。妻は斯波義将の娘。子に義俊。幼名は長寿王丸、のち元服時に室町幕府第3代将軍足利義満より偏諱を賜い、満頼と名乗る。 == 生涯 == 文中元年/応安5年(1372年)、渋川義行の次男として生まれる。幼少時に父を亡くすものの、天授元年/永和元年(1375年)から明徳4年(1393年)まで備中、天授5年/康暦元年(1379年)から弘和2年/永徳2年(1382年)まで摂津、応永元年(1394年)から応永7年(1400年)まで安芸の守護を務めた。応永3年(1396年)からは将軍・足利義満に罷免された今川貞世(了俊)の後を継いで亡き父と同じ九州探題の職に任じられた。 探題となってからは少弐氏や菊池氏、阿蘇氏らの反幕府勢力の平定に努力し、少弐貞頼、菊池武朝と戦った。特に少弐氏との因縁はこの後数代に渡って続いていくことになる。満頼は諸大名の統制においては了俊に及ばないものの無難にその任を勤め、肥前を探題の分国と定めて渋川氏が九州における一勢力として戦国時代前期まで存続する基盤を築いた。満頼は筑前より肥前に本拠を遷し、肥前養父郡綾部に肥前の守護館を設けた。これが渋川氏代々の館となった。 また一方で李氏朝鮮と積極的に交易を行い、自らを九州都督、鎮西節度使などと称し朝鮮国王から貿易を許す印である図書を与えられて受図書人となった。 応永13年(1406年)、剃髪して道鎮と号し、応永26年(1419年)、九州探題を辞任して子の義俊に譲る。以降、九州探題は渋川氏が代々世襲していくこととなった。文安3年(1446年)3月13日、京都で卒去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「渋川満頼」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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