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渋川 義長(しぶかわ よしなが、生年不明 - 天文3年(1534年))は、戦国時代前期の武将。室町幕府の九州探題。本姓は源氏で足利氏の一門渋川氏の出身。 父は渋川尹繁。渋川尭顕は兄弟とも甥とも従兄弟(尹繁の弟・和是の子?)ともいわれる(甥の場合でも尭顕の父となる兄弟がいたということになる)。また、兄弟説の中でも和是の子で尭顕とは兄弟、伯父・尹繁の養子とするものもある〔武家家伝_渋川氏 内系図(「続群諸類従」)による。〕。 == 概要 == 永正元年(1504年)、父である渋川尹繁より肥前守護職と九州探題職を譲り受けたとされる。 父と同じく、将軍・足利義稙より偏諱を受けて初めは渋川稙直(たねなお)、のちに将軍家の通字(「義」の1字)を下賜され義長と名乗る〔少なくとも「稙直」と名乗ったのは義稙がその名を名乗っていた永正10年(1513年)から同18年(1520年)の間の筈である(実際、同14年の段階では「稙直」を名乗っていたということが「承天寺文書」で確認できる)。一方後者の「義長」の1文字目も義稙から賜ったのだとすれば、その8年の間に改名を行ったということになるが、そうでない場合は次の将軍・足利義晴から賜ったと考えても矛盾はない(今のところ確証なし)。父とされる尹繁も同じく義稙(初め義尹)から1字を賜っており、その年が明応9年(1500年)とみられているが、前述と年代が近く、もしこれが尹繁の元服(幼名・刀祢王丸からの改名)であれば父子関係とする説がやや怪しくなる(立証のためには、尹繁がその名前を名乗ってまもなく義長が生まれていること、またその義長が早めに元服しているという条件が必要となる)。〕。 その後の天文2年(1533年)に長年の庇護者であった大内氏(大内義隆)を裏切り、逆に長年の宿敵であった少弐氏(少弐資元)に通じた為、大内軍の攻撃に晒された。翌天文3年(1534年)、大内軍によって朝日山城を落とされ自害した。義長の死によって、肥前における渋川氏は滅亡し、同じく九州探題も途絶することとなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「渋川義長」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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