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渋沢財閥(しぶさわざいばつ)は、渋沢栄一により設立された財閥。十五大財閥の1つ。ただし、連合国軍最高司令官総司令部が財閥解体を実施した時資本金は1,000万円〔『渋沢家三代』、248頁。〕、払込金は625万円であるにすぎず〔、GHQから再調査の上渋沢同族は財閥に相当せずとの通告をしてきた〔『渋沢家三代』、249頁。〕。だが当時の当主・渋沢敬三が「それでは世間が承知せんだろう」と言ってこれを放置したため結局財閥指定を受けた〔。 == 概要 == 渋沢栄一は、1873年に第一銀行(後の第一勧業銀行。現在のみずほ銀行の前身の一つ)を創設。以後500にのぼる企業の創設、育成に携わった。ただし、栄一は日本の近代化のために企業を起こして軌道に乗せることを自分の責務と考え、起業・経営によって個人的な利益を得ることを嫌った。このため、自ら設立した企業の役職を長く務めたり、大量の株式を保有して企業を支配することには関心が無かった。 とはいえ、起業した企業の成長に伴って栄一の資産は結果的に膨らむことになり、栄一の死後にそれを巡って財産争いが起こることも考えられるようになった。そのため、1891年に同族会を組織して、栄一及び一族の財産の管理・運営方法を定め、栄一が財界を完全に引退する前年の1916年に持株会社である渋沢同族株式会社(資本金330万円)を設立した。これが財閥形成の契機とされている。 なお、この会社の系列企業の対する株式保有率は極端に低く、栄一の死から5年後の1936年の資料によれば中核企業である第一銀行(嫡孫で社長の渋沢敬三が常務、取締役で娘婿の明石照男が頭取を務める)で2.9%〔、石川島造船所で1.9%〔『渋沢家三代』、248-249頁。〕、東京貯蓄銀行で16.5%、最も比率の高い澁澤倉庫でも26.2%に過ぎず、他の財閥のように発行株式の過半数を保有する企業が存在しなかった。従って、財閥としての形態は他と比べると薄く、財閥の主要要素である系列企業の支配が貫徹されていない。 1943年三井銀行と第一銀行の合併(帝国銀行となる)により中核企業を失う。 戦後の財閥解体に伴い1946年12月7日に持株会社指定を受け、翌年10月に解散した。 1948年帝国銀行が分割し旧第一銀行が独立、行名も合併前の旧名である第一銀行に復した。その後第一銀行及びその後身である第一勧業銀行を中核として渋沢財閥の流れを汲む企業が結集し第一勧銀グループが結成された〔 - 同志社大学学術情報検索システム内のページ。筆者は経済学者の田中彰。〕。 2015年現在渋沢の名を残す主な企業は、澁澤倉庫のみである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「渋沢財閥」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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