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渋谷 誠司(しぶたに せいじ、1939年4月24日 - )は、青森県弘前市出身の元プロ野球選手。ポジションは投手。 == 来歴・人物 == 弘前商業高校卒業後、日本通運の弘前支社に入社。同支社の軟式野球チームに所属。全国大会で活躍したことにより日通の野球関係者に注目され、社長命令で浦和支社へ異動。当時の日本通運浦和硬式野球部に移る。1961年の都市対抗では、2回戦(初戦)で電電九州と対戦。妻島芳郎をリリーフして好投するが惜敗〔「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年〕。 投手育成に実績のあった当時の稲葉誠治監督に「金田正一のような投手になる」と言われ、当時日通が出資していたプロ野球チーム・国鉄スワローズも育ちあがった上での入団を見据えていたが、噂を聞いた東映フライヤーズのスカウトが駆け付けたことにより、日通社長の特別許可をもらう形で1962年に国鉄へ入団〔「プロ野球人国記完全版〜北海道・東北編」(2004年、ベースボール・マガジン社発行)〕。 入団当時「久々の大型左腕」と言われた。また、全くの無名の軟式投手が巨人と対等に渡り合う投手になったことから、「シンデレラボーイ」とも言われた〔「プロ野球人国記完全版〜北海道・東北編」〕。 ギクシャクしたややサイド気味の投球フォームから威力のあるストレート、カーブ、シュートを武器にしたが、気が弱く、また制球力が悪かった。2年目に14勝をマーク。1965年にはオールスターゲームに初出場するが、シーズンではリーグ最多敗戦の22敗を記録。その後徐々に登板数も減り、1970年に一軍で投げる事が出来ず引退した。 2005年、王貞治が「週刊ベースボール」の最も速い投手は誰かというアンケートに渋谷と答えている〔週刊ベースボール2005年9月5日号=37号、豊田泰光の「オレが許さん!」第592回より。〕。 一方で、王には初のシーズン30号本塁打(1962年)・シーズン40号本塁打(1963年)をそれぞれ献上している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「渋谷誠司」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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