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渕 正信(ふち まさのぶ、1954年1月14日 - )は、日本のプロレスラー。福岡県北九州市戸畑区出身。身長183cm、体重105kg。血液型B型。 入場テーマ曲は『DANGER ZONE〔映画『トップガン』テーマ曲〕』。赤鬼、地獄の仕事人等の異名を持つ。愛称は「フッチー」。 == 来歴 == 八幡大学付属高校時代はレスリングと陸上競技で鍛えあげる。八幡大学進学も中退し、日本プロレスへ入門を目指し上京するが、列車の中で読んだ九州スポーツで、日プロの崩壊を知り、一旦九州に帰る。 その後1974年4月10日に全日本プロレス入門(理由はジャイアント馬場に憧れていたから。新日本プロレスもすでに旗揚げされていたが、日プロ時代のファンである渕は「馬場さんと猪木さんでは、スターとしては格がまったく違うじゃないですか」と後に語っている)。入門わずか12日で徳島県三好市(旧池田町)四国電力横広場での大仁田厚戦でデビュー。当時は大仁田とハル薗田(薗田一治)と共に若手三羽烏の一人として頭角をあらわしていった。 1980年に海外武者修行に出発、プエルトリコにて大仁田と合流し、1981年3月よりマサ・フチ(''Masa Fuchi'')のリングネームでテネシー州メンフィスのCWAに参戦。トージョー・ヤマモトをマネージャーに迎え、大仁田とのコンビでジェリー・ローラー&ビル・ダンディーやロックンロール・エクスプレスとAWA南部タッグ王座を争い、同タイトルを通算3回獲得した。 全日本プロレスのレスラーには珍しく、カール・ゴッチより指導を受けている。1983年6月にはチャボ・ゲレロの持つNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座に挑戦を果たした後に凱旋帰国し、日本で8月31日に再度挑戦するも王座奪取ならず。その後は、ジュニアに転向したマイティ井上や、移籍してきたグラン浜田、マジック・ドラゴン(ハル薗田)、2代目タイガーマスクらのサポートに回ったり、怪我から復帰してきた大仁田と前座で闘っていたが、2代目タイガーのヘビー級転向を受けて、再度ジュニアの表舞台に立ち、1987年に小林邦昭から世界ジュニアヘビー級王座を初奪取、以降5度同王座を獲得し、ジュニアヘビー級のトップレスラーとしての地位を確立する。 その一方で、三沢光晴率いる超世代軍とジャンボ鶴田率いる鶴田軍との抗争では鶴田軍についてメインイベントなどで戦う他、永源遙や大熊元司らと共に悪役商会の一員としてジャイアント馬場、ラッシャー木村らのファミリー軍団と抗争を繰り広げるなど、名バイプレイヤーとして分裂前の全日本を支えた(よく試合後のラッシャー木村のマイクパフォーマンスで独身ネタで槍玉に挙げられる)。 2000年に起こった大量離脱騒動で、中堅レスラーとして活躍していた渕はトップを張らざるを得なくなった。 同年8月の新日本プロレスG1 CLIMAX大会において、スーツ姿でリングに上がり「30年の長い間、全日本プロレスと新日本プロレスとの間には、厚い壁がありました。今日、その壁をぶち破りに来ました。全日本プロレスは選手2人しかいませんが、看板の大きさとプライドは新日本に負けてはいない!」と歴史に残るマイクアピールを行い、新日本プロレス現場責任者(当時)の長州力と固い握手を交わした。またこのとき現れた蝶野正洋が「ここはテメェの上がるリングじゃねぇんだオラ! とっとと降りろ!」と激怒して被っていた帽子を投げつけたが渕は余裕綽々の態度を崩さず、蝶野の帰り際には「蝶野、忘れ物だ」と帽子を放り返し、格負けしない振る舞いを見せ付けた。最後には「我々は逃げも隠れもしない! 蝶野、来るなら来い!」「新日本プロレスのファンの皆様、どうも大変お騒がせしました」としめくくったことから、会場からは異例の大「フッチー」コールが沸き起こった。 武藤敬司、小島聡らが移籍し、徐々に所属選手も増え団体として活気を徐々に取り戻してくると、再び中堅ベテランレスラーとしてガッチリ脇を固め、リング外ではスポークスマンとして今日まで活躍している。 大のキティちゃん好きとしても知られ、全日本のスポンサーであるあすなろ舎から作ってもらった世界に一着しかないキティちゃんのガウンを着ての入場は現在の全日前座名物の一つともなっている。 結婚経験がなく、『週刊ゴング』や『週刊プロレス』の読者コーナーに度々渕独身ネタが投稿・掲載されることがあるほか、ラッシャー木村からネタにされたことも多い。永源遙が「渕が結婚しないのは、マザコンだからだ」とネタにしている。 渕が開発した低空ドロップキックの開発は多くのプロレスラー、特にジュニアヘビー級のファイトスタイルに極めて大きな影響を及ぼす。低空ドロップキックと無数の関節・ストレッチ技、ナックルパートや顔面キック、アトミック・ドロップの体勢からの急所攻撃など、テクニックとラフを兼ね備えた観客を強く刺激するファイトスタイルを確立してジュニアのみならず三沢らヘビー級とも堂々渡り合い、「赤鬼」の異名を取る。 後述の世界ジュニア最多防衛記録元保持者であったが故に、TAKAみちのくが14度目の防衛の対戦相手として決めていたのが渕であったり、前保持者近藤修司が執拗に渕との世界ジュニア戦を要求していたなど、全日本ジュニアでの影響力は依然衰えていないが、体力的な衰えは隠せず、菊タロー、荒谷と共にお笑いスタイルの第一試合で興行を暖める役に徹している。なお、菊タローにはシングルで1度も負けていない。 和田京平レフェリーと共に、団体生え抜きの人物として全日本プロレスの看板を守り通す重鎮でもあったが、2009年より全日本プロレスの所属レスラーとしての契約をしていない事と、同社取締役を同年に辞任していた事が判明し、以降フリーランスの立場で全日本プロレスに参戦していた〔別冊宝島『プロレス大貧民』の渕正信インタビューより〕。契約的には問題が無いため、他団体への出場も可能で、実際にオファーも来ていたが〔別冊宝島『プロレス大貧民』の渕正信インタビューより〕、他団体の興行には出場せず、全日本プロレスの興行にのみ出場している〔唯一、小橋建太の引退興行で、小橋からの直接のオファーにより、特別に出場している。〕。「全日本プロレスが消滅したら、引退する」と公言もしているほど、全日本愛は誰にも負けない。 2013年7月14日、全日本プロレス取締役相談役の就任を発表〔渕が取締役相談役に「生涯、全日本」 デイリースポーツ 2013年7月15日〕。 2014年還暦記念特別試合を1月に3月には40周年特別記念試合を行う。12月14日、後楽園ホールで行われた全日本プロレス「和田京平レフェリー40周年&還暦記念大会〜和田京平プロデュース〜」では青木篤志の持つ世界ジュニアヘビー級選手権に5年ぶりに挑戦し、20分以上闘ったが肩固めでギブアップ負けした〔「試合リポート 全日本12・14後楽園」、『週刊プロレス』No.1771、ベースボール・マガジン社、平成26年12月31日号(12月17日発行)、29頁、2014年。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「渕正信」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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