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株式会社渡辺プロダクション(わたなべプロダクション、英文社名:Watanabe Productions Co., Ltd.)は、芸能事務所など12社1財団(自社含む)を統括する持株会社である。しばしばナベプロと呼ばれる。 創業者は渡辺晋。晋の妻の渡邊美佐は名誉会長兼渡辺プロダクショングループ代表。代表取締役会長は晋・美佐夫妻の長女である吉田美樹(渡辺ミキ、ワタナベエンターテインメント社長)、代表取締役社長は次女の渡邊万由美(トップコート社長)が務める。 == 概要 == いまも斯業では国内有数の規模を誇る同社だが、1960年代から1970年代にかけて「渡辺プロなくしては歌番組やバラエティ番組は作れない」と言われるほどの「独占状態」を呈していた。ハナ肇とクレージーキャッツ、ザ・ピーナッツ、ザ・ドリフターズ(これら3グループを総称し「渡辺プロ3大タレント」と呼ぶこともあるが、ザ・ドリフターズはナペプロ創成期から在籍していた前者二組の後輩にあたり、さらに1979年に系列事務所「イザワオフィス」に移籍しているため、クレージーキャッツとザ・ピーナッツで2大タレントではないかという声やザ・タイガースやキャンディーズも入れるべきだという評論家の声も根強い)、園まり、沢田研二、布施明、森進一、小柳ルミ子、天地真理、キャンディーズ等の大スターを多数抱え、番組も多数制作した。 元々は1950年代当時、まだ差別や偏見の目で見られることもあった芸能人の待遇改善と地位向上を目的として、ジャズミュージシャンであった渡辺晋が、妻の渡辺美佐、松下治夫(のちの制作本部長)河合聡一郎等と共にタレントに仕事先を見つけ、出演料の一部を受け取ることだけであった芸能プロの仕事を変革した事が始まりである。レコードやテレビ番組や映画を自社で制作して、レコードの原盤制作収入や番組制作費、興行収入が入ってくるようにし、現代における芸能ビジネスのスタイルを作った。 また楽曲を管理し使用料を徴収するため1962年に渡辺音楽出版を設立し〔布施明・沢田研二など、現在は渡辺プロから離脱した歌手であっても、所属時代の曲をカバー・再録する時などの著作権許可は同会社が管理している(布施明のアルバム『スペシャル ベスト ~1965-2009~』(2009年 ユニバーサルミュージック)付属リーフレット等)。〕、渡辺プロに所属した歌手ばかりではなく海外のアーティスト(ミッシェル・ポルナレフ、ホワイトスネイク、クイーン等)の楽曲でも収益を上げている。 それまで個人商店、徒弟制度的な意味合いが強かった芸能事務所の組織化を断行し、「一人のマネージャーがデビュー時から引退までタレントと一蓮托生の運命を歩む。」というそれまでのマネージメントあり方を変更し、一人のタレントに対し数人のマネージャーを付け、数年周期で交代させるシステムを採用。あらゆる分野に精通し人脈、知識を蓄えた人材の育成を目指した。 渡辺プロダクションの勢力拡大にあたって、佐藤栄作や中曾根康弘や五島昇など政財界の大物のもとへ傘下の人気タレントを総動員し、佐藤栄作の別荘の前でハナ肇に「今日もお酒が飲めるのは、おとうさん(佐藤栄作)のおかげです。おとうさんのおかげです、おとうさんありがとう!」と音頭をとらせてクレイジーキャッツや中尾ミエに唱和させ、佐藤らの機嫌をとったこともある〔軍司貞則『ナベプロ帝国の興亡』p.170〕。渡辺美佐個人の女性としての魅力を利用して大物に取り入ることもあったという〔軍司貞則『ナベプロ帝国の興亡』p.171〕。 芸能の興行に必要な暴力団との付き合いに関しては、山口組2代目組長の山口登と兄弟盃を交わした大物興行師の永田貞雄を擁して睨みを効かせ、ビジネスの暗部を肩代わりさせていた〔軍司貞則『ナベプロ帝国の興亡』p.186〕。 マスコミ関係者には酒と麻雀を通じた接待をおこない、渡辺プロダクションに有利な記事を書く者には特ダネを提供したり、レコードのジャケットの解説執筆などの仕事を与えたりして普通より高い報酬を支払った〔軍司貞則『ナベプロ帝国の興亡』p.196-197〕。テレビ局でも、渡辺プロダクションに好意的なスタッフにはテレビ番組の構成などの仕事を与えた他、顧問料や企画料などさまざまな名目で利益を供与した〔。一方、渡辺プロダクションに批判的なスタッフには圧力をかけて業界を去るように仕向けていた〔。 また俳優、歌手、コメディアンと分業し、それぞれの領域を侵さないというそれまでの芸能界のやり方を一変させ、「新春かくし芸大会」等では四十年以上も前から人気歌手や俳優に寸劇を演じさせる等、マルチタレント時代の先駆けを構築し今日の芸能界の礎を築いた。 その一方、若手タレントが売れると寝る間もないほど働かせ、負担を強いたにもかかわらず、給料は年功序列型の月給制であったため、人気の若手歌手よりもたまにしか出番のないベテランタレントの給料の方が遥かに高かった(1975年頃の高額納税者番付で、当時人気だった沢田研二や森進一よりもピークが過ぎていたクレージーキャッツのメンバー達が上位にランクし、世間の話題に上った)。 もちろん初期投資のプロモーション費用の回収や、駆け出しの売れないタレントへも月給を回さなければならないという事情もあったのだが、以上の理由で独立をもくろんだり実行に移すスターも多く、徹底してその妨害工作を図った。三人娘の一人である伊東ゆかりが独立すると各局に「ゆかりを出すなら渡辺プロのタレントは出演させない」と圧力をかけて干したり、独立を阻止するなどの行為に及んだ。このような妨害行為を続けたため森進一や小柳ルミ子ら独立したタレント・歌手は、一時期民放全局に出演できなくなった。 やがて日本テレビの公開オーディション番組として知られる「スター誕生!」が成功すると、ホリプロ等が台頭(1970年代後半には渡辺プロに次ぐ勢力となった)し、1980年の漫才ブームで吉本興業、男性アイドルを多く持つジャニーズ事務所、テレビドラマや映画などに多くの俳優を送り込んでいる研音にも力をつけたことにより、相対的に影響力が低下した。その後は独立希望のタレントに対し、渡辺プロおよびその系列事務所が独立後の事務所に51%出資する(渡辺プロ傘下になる)ことを条件として、表向き円満に独立を認めている。 そうして傘下企業が増えたこともあり、2000年10月24日機構改革を行い、残っていた現業部門を別会社(ワタナベエンターテインメントなど)に分社し持株会社に移行した。そのため現在は子会社のワタナベエンターテインメントが「ナベプロ」と呼ばれることも多くなっている。 かつてほどの勢いはないものの、多くのグループ会社を通じていまだに芸能界へ大きな影響力をおよぼしている。 グループは現在でも株式を公開していないが、過去には株式公開の話を幾度となく持ちかけられていた。しかしながら渡辺晋の「芸能市場は長期的なスパンが必要であり、株価を気にし、株主に常に配当をしなければという状況下では成立しにくい」との判断のもとで、株式の公開は行なっていない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「渡辺プロダクション」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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