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渡辺 始興(わたなべ しこう、天和3年(1683年) - 宝暦5年7月29日(1755年9月5日))は京都出身の江戸時代中期の絵師。通称求馬。狩野派や大和絵など多様な様式で描いたが、一般に琳派の絵師に分類されることが多い。 == 略伝 == 宝永5年(1708年)頃から東宮御所や近衛家に仕え、二条家など上流貴族の屋敷に出入していた。初め狩野派、ただし画風から京狩野ではなく、狩野探幽の流れを組む江戸狩野に学んだと考えられる。師は、後に始興の障壁画を鶴沢探索が補作していることから、その祖父の鶴沢探山〔土井次義「渡辺始興展に寄せて」『花鳥山水の美 桃山江戸美術の系譜』において、両者の関係を間接的に指摘している。〕、あるいは後に述べる渡辺始興・素信同一人物説から山本素軒とも言われる〔相見香雨「渡辺始興と乾山」(『大和文華』23号所収)で参照されている山本臨乗という人物の手記に、渡辺始興の略歴が記述され、素軒の「もとおき」と、素信の「もとのぶ」との訓読みが共通し、始興も「もとおき」と訓ずることで師弟関係を示唆する、という見解が述べられている。〕。のちにそれに飽きたらず、晩年の尾形光琳に師事したとする説が有力である〔江戸期の画伝類の記述より。『本朝古今書画便覧』(文化15年(1818年)刊)に「初め画を狩野家に学、後光琳を師とす」、白井華陽著『画乗要略』では「初学狩野氏、後参以光琳」、『古今墨蹟鑑定便覧』(安政2年(1855年)刊)には「始め狩野風を学び、又光琳を学ぶ」、「光琳印譜」(『古画備考』所収)でも「光琳門人」とある。ただし、光琳師事説の具体的な史料は確認できない。〕。また宝永年間、尾形乾山の絵付けを手伝っていた渡辺素信は始興と同一人物であるとする説もある〔「銹絵蘭石図」角皿(根津美術館蔵)裏面の墨書銘に、乾山が自分の筆より優れた「画師渡辺素信」が描いたことを記しており、この染付と始興の「墨蘭図」(個人蔵)と共通性が見られる。〕。他にも大和絵の画法も研究し、「春日権現霊験記絵巻」「賀茂祭絵巻」「八幡太郎絵詞」などの立派な模本を残している。近衛家熈の指導もあって写生画にも先鞭をつけ、実証的・客観的な観察に基づく細密な写生を試みた。菩提寺は近衛家の墓所でもある西王寺。戒名は環翠軒輪誉法雲居士。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「渡辺始興」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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