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渡辺康幸 : ミニ英和和英辞書
渡辺康幸[わたなべ やすゆき]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [へん]
 【名詞】 1. (1) area 2. vicinity 3. (2) side (of triangle, rectangle, etc.) 4. (3) circumstances 
: [さち]
 【名詞】 1. happiness 2. wish 3. fortune 

渡辺康幸 : ウィキペディア日本語版
渡辺康幸[わたなべ やすゆき]

渡辺 康幸(わたなべ やすゆき、1973年6月8日 - )は、千葉県千葉市出身の日本陸上競技選手、指導者。専門は長距離走住友電工陸上競技部監督。市立船橋高校早稲田大学人間科学部卒業。
市立船橋高校、早稲田大学のエースとして全国高等学校総合体育大会全国高等学校駅伝競走大会東京箱根間往復大学駅伝競走などの大会で大活躍を見せた。大学以降は瀬古利彦の指導を受けて、日本代表として1992年世界ジュニア陸上競技選手権大会10000m3位、1995年世界陸上競技選手権イェーテボリ大会10000m12位、ユニバーシアード福岡大会10000m優勝の成績を収めた。1996年にエスビー食品へ入社しマラソンで世界を目指した。アトランタオリンピックの10000mはアキレス腱の故障により出場ができなかった。度重なる怪我により、2002年に現役を引退した。
その後は指導者へ転身し、低迷する母校早稲田大学競走部長距離部門の育成に取り組み、2004年に駅伝監督に就任した。2010年の第22回出雲全日本大学選抜駅伝競走、第42回全日本大学駅伝対校選手権大会、2011年の第87回東京箱根間往復大学駅伝競走を制した。2015年3月をもって早稲田大学競走部駅伝監督を退任、2015年4月からは住友電気工業陸上競技部監督を務めている。
== 経歴・人物 ==

=== 幼少から市立船橋高校まで ===
1973年千葉県に生まれる。渡辺は祖父が元800m栃木県記録保持者で、父も短距離走の選手という家庭に育った〔渡辺 (2008) p.187.〕〔高蔵哲也 「渡辺康幸さん(表紙の人 坂田栄一郎のオフ・カメラ) 」 『アエラ』1995年12月18日、72頁。〕。小学生の頃は野球とサッカーのクラブチームに入り、野球では投手で4番となる運動神経を備えていた〔。1986年中学校に進学。野球かサッカーを続けようと考えていたが、父の勧めにより陸上部に入部した〔。中学校の陸上部の練習は厳しくなかったが走ることに楽しさを見出し、3年時に千葉県大会800m3位となった。また駅伝では千葉市大会で区間賞を獲得して優勝し、千葉市選抜チームとして出場した千葉県中学校駅伝大会でも区間賞を獲得した〔渡辺 (2008) pp.188-189.〕。1988年12月に第1回国際千葉駅伝が開催され、母校の中学校の前をアンカーで後に師となる瀬古利彦が駆け抜けた。目の前を走る瀬古を見て歩道を伴走し一瞬で置き去りにされたが、この時のできごとが渡辺の陸上に対する想いを強くした〔大須賀軒一 「[平成20歳] (2) 早大競走部の駅伝監督・渡辺康幸さん34(連載)=千葉」 『読売新聞』2008年1月3日東京朝刊、千葉面、34頁。〕〔渡辺 (2008) p.190.〕。これは瀬古の引退レースでもあった。
渡辺は県駅伝大会の結果により、箱根駅伝の強豪私立大学の附属校からのスカウトを受けて進学を考えていたが、その後市立船橋からの勧誘を受けた。監督の小出義雄が中学生の渡辺について「タイムは関係ないんですよ。大切なのはフォーム。康幸くんは大きな走りでねえ。こりゃあ絶対に伸びると思った」〔中村俊一 「駆ける魂 早大駅伝監督 渡辺康幸 1」 『日本経済新聞』2006年3月6日夕刊、スポーツ1面、20頁より引用。〕と高く評価しており、小出や渡辺敏彦が指導する陸上全国区の強豪校「市船」に憧れを抱いていた渡辺は、私立校への進学を勧める父親を説得し、市立船橋高校普通科の一般入試に合格して同校へ進学した〔渡辺 (2008) pp.191-193.〕〔奥野富士郎 「[挑戦]陸上・長距離の渡辺康幸=下 大きな器 マラソンに照準、目標高く」 『読売新聞』1995年5月7日東京朝刊2部、N4面、4頁。〕〔中村俊一 「駆ける魂 早大駅伝監督 渡辺康幸 1」 『日本経済新聞』2006年3月6日夕刊、スポーツ1面、20頁。〕。
市立船橋高校では渡辺敏彦監督指導の下、渡辺は陸上強豪校の厳しい練習を重ねた。朝練習からビルドアップ走と呼ばれる後半にかけて速度を上げるトレーニングの9km走が日課となった。放課の練習内容は曜日によって異なり、大きな高低差があるコースの20km走や、400m×20本のインターバル走、あるいはクロスカントリーコースを走る練習などを行なっていた〔渡辺 (2008) p.196.〕。休養は日曜日のみであった。練習の成果はすぐに現れ、入学4ヵ月後の8月に初めての全国大会出場となる国民体育大会に出場し、少年男子B5000mで2位入賞の成績を残した〔渡辺 (2008) pp.194-201.〕。
渡辺は1989年の1年時から全国高等学校駅伝競走大会都大路に3年連続出場した。2年時からは2年連続で各校のエースが集う花の1区・10.0kmを走った。NHKのテレビ中継でレースの解説を務めた宗茂が「彼は高校2年生にして、実業団2年目の選手に匹敵する走力の持ち主」と紹介するなど注目を集める中、29分42秒で区間賞を獲得した。3年時は区間記録29分29秒の更新を狙って西京極競技場を先頭で飛び出し、2位に70m差をつけるなどハイペースで後続を振り落としつつ疾走した〔長岡ほか (2000) pp.186-189.〕。12月ながら気温が17度を超える悪条件の中、7km過ぎで腹痛を起こし9kmからのラスト1kmは3分以上要したが、29分34秒を記録して区間賞を獲得した〔「駅伝 全国高校22日 福岡勢が史上初のアベック制覇 大牟田と筑紫女学園」 『読売新聞』1991年12月23日東京朝刊、スポーツC面、21頁。〕。1区の2年連続区間賞獲得は30年ぶり史上4人目となる快挙であった〔「[高校駅伝半世紀]/6 花形選手 瀬古、宗兄弟、谷口、渡辺…都大路から世界へ」 『毎日新聞』1999年12月8日東京朝刊、スポーツ面、19頁。〕。また、都大路前の関東高校駅伝1区10kmでは高校生初の28分57秒を記録している。
渡辺は2年時から高校長距離では無敵を誇り、1990・1991年の国民体育大会少年A10000mを連覇した。3年時には全国高等学校総合体育大会1500m5000mの2種目を制した。12月1日の中央大学記録会10000mにおいて28分35秒8を記録し、櫛部静二の従来記録を36秒更新する日本高校記録を樹立した〔記録集計号2009 (2010) p.197.〕。
渡辺は1990年8月にプロヴディフで開催された世界ジュニア陸上競技選手権大会5000mに出場し、初めて日の丸のユニフォームを身にまとった。この時は緊張から来る腹痛により予選を途中棄権する結果に終わったが、世界の大舞台・世界の強さを自らの身で経験し、成長への大きなきっかけとした〔〔渡辺 (2008) pp.201-203.〕。1991年3月ボストンで開催された世界クロスカントリー選手権ジュニアでは優勝したイスマイル・キルイから31秒差、2位のハイレ・ゲブレセラシエから23秒差でゴールし、日本勢最高位の7位に入った〔「陸上 群馬リレーカーニバル第1日 大沢が男子5000m制す 渡辺は5位」 『読売新聞』1992年4月26日東京朝刊、スポーツB面、16頁。〕。渡辺は10以上の大学・実業団からスカウトを受けたが、コーチを務める瀬古利彦の箱根ではなく世界を目標に考える勧誘を受け、武井隆次・櫛部静二・花田勝彦ら強い選手と競争できる環境を求めて早稲田大学人間科学部に進学した〔〔襷の記憶 (2008) pp.11-12.〕〔渡辺 (2008) p.204.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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