|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 辺 : [へん] 【名詞】 1. (1) area 2. vicinity 3. (2) side (of triangle, rectangle, etc.) 4. (3) circumstances
渡辺 秀武(わたなべ ひでたけ、1941年9月16日 - 2007年8月25日)は、静岡県富士市出身のプロ野球選手(投手)・プロ野球スカウト。通称「メリーちゃん」。 == 来歴・人物 == 富士高校、本州製紙、日本軽金属を経て、の第34回都市対抗野球大会(河合楽器に補強されて出場)終了後に読売ジャイアンツへ入団。 最初の3年間は低迷し、マウンド上での気の弱さから「メリーちゃん」とあだ名された(当時の寮長、武宮敏明がバャリースオレンヂのテレビCMに出ていたチンパンジーの「メリーちゃん」を「渡辺に似ている」と言った事が始まり)。4年目のに南海ホークスの杉浦忠をまねて下手投げに転向してから頭角を現し、同年に13勝を挙げる。にはノーヒットノーランを達成、23勝を挙げるなど堀内恒夫、高橋一三と並び主力投手として活躍。1971年8月4日には、大洋ホエールズ相手に三者連続三球三振の記録を達成した。 、高橋善正との交換トレードで日拓ホームフライヤーズに移籍。に坂井勝二との交換トレードで大洋ホエールズへ、に田中由郎との交換トレードで奥江英幸と共にロッテオリオンズへ、に望月卓也・平田英之・劔持節雄との交換トレードで金田留広と共に広島東洋カープへ移籍。古葉竹識に熱心に誘われた広島では、江夏豊へつなぐ中継ぎとして、1979年・の日本シリーズ連覇に貢献した。 には、以前在籍していた日本ハムに勝利投手になれば、当時達成者のいなかった『全12球団からの勝利投手』になることができるという話題があり、日本ハム戦にも登板機会はあったが、勝利投手にはなれなかった。翌年セ・リーグの広島に移籍したため、交流戦のない当時、記録達成は不可能となった。 に当時の通算与死球日本タイ記録保持者だった渡辺は引退試合に与死球日本新記録を狙うことを決意、監督の古葉にその心中を打ち明けた〔近藤唯之 『引退 そのドラマ』 新潮社(新潮文庫)、1986年、42頁。〕。古葉は最初は戸惑ったが、渡辺の熱意と、決して怪我をさせるようなことはしないという言葉を信じて挑戦を許した。そして10月16日の対阪神タイガース戦で、1イニングの予定でマウンドに上がった渡辺は、わざと緩い球を内角に投げ続けたがことごとく避けられ、2アウトまで来たが、左バッターの吉竹春樹に対し得意のスライダーをインコースに投げて成功し、ベンチに戻ると古葉から祝福の言葉をかけられたという。成功した時は「殺人鬼のような記録だ」と言う人もいたが、自身は後に「狙わなかったらプロとして失格」と語っている〔野球小僧、2006年12号〕。後に記録は東尾修に塗り替えられた。 引退後は23年間広島の東京駐在スカウトとして活動、川端順、長冨浩志、山内泰幸、澤崎俊和、新井貴浩、栗原健太らを獲得した。1998年ドラフトで広島に入団した新井貴浩は、当初エラーばかりであるため、渡辺が「プロでは無理」と断った。ところが新井に「契約金はいらないから入団したい」と言われ、また当時監督就任した達川晃豊らに「指名してやってくれ」と頼まれたので仕方なく6位で指名した。新井は入団後、長く伸び悩んだが2005年に本塁打王を獲得し広島の4番となった。2006年勇退。 2007年8月25日、肺炎のため浜松市の病院で死去。享年67(65歳没)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「渡辺秀武」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|