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渡邊洋治(わたなべ ようじ、1923年6月14日 - 1983年11月2日)は、新潟県直江津市(現:上越市)出身の建築家。 陸軍船舶兵出身で随所にその影響がうかがえる独特のデザインの建築物を手がける。狂気の建築家、異端の建築家と呼ばれた。代表作に第3スカイビル(鉄のマンション)。この東京都新宿区職安通り沿いに残る通称「軍艦マンション」第3スカイビルなどの建築のほか、黒マジックペンを使用し背景を黒くして描かれる数々のコンペ案のドローイングで著名。そのため勤務していた大学の大学院生らに「マジラ」とあだ名をつけられ、また師の吉阪隆正によると、万博会館コンペ審査で浦辺鎮太郎から「鬼軍曹」と命名されたという。 建築設計事務所をはじめた当初は日本古来の木造工法を用いた作品を多く発表。コンクリート造では大スパン工法を用いていた。その後ユニット型・カプセル形式の建築を手がけ始め、晩年は龍や虎を模したものや渦巻き型の建築プランを嗜好した。 ==経歴== *1923年 6月14日、新潟県直江津町(現上越市)に長男として誕生。父一三治(いさじ)、母トラ。実家は代々大工が家業。 *1936年 小学校の先生の勧めに応じ、新潟県立高田工業学校木材工芸科に入学 *1941年 高田工業卒業、日本ステンレス株式会社営繕課に勤務する。 *1944年、陸軍船舶兵として徴兵。フィリピン・セブ島に入営するが、幹部候補生試験に合格し帰国。陸軍予備士官学校に入学し卒業後、新潟にあった日本海船舶隊司令部に勤務。 *1945年、日本ステンレスに復職。同社の関連施設設計に従事。 *1947年、久米建築事務所に移籍。同事務所で藤沢市役所庁舎、浜枚市役所庁舎、鷹岡町役場庁舎、大和銀行新橋支店、マキノ光雄邸、浅井邸を担当している。 *1952年、一級建築士の資格取得。 *1954年、久米建築事務所を退職。翌年、早稲田大学理工学部建築学科吉阪研究室助手。ヴェニス日本館の設計等に従事。 *1958年 渡邊建築事務所開所 *1959年から、早稲田大学及び早稲田大学産業技術専修学校(現早稲田大学芸術学校)講師。同年、日本建築家協会会員。 *1962年 渡邊建築事務所ビル竣工(千代田区平河町) *1963年 日本建築学会編集委員 *1970年 早稲田大学大学院特殊学生(~1973年) *1973年、青年海外協力隊試験委員。その後、学生のための海外視察旅行企画・立案、引率をつとめる。 *1979年、ニューヨーク近代美術館の展覧会に出展。 *1983年 11月2日、日本大学駿河台病院にて死去。享年61 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「渡邊洋治」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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