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渡辺 洪基〔『職員録』等の印刷物では正字に統一するとの慣例により「渡邊」と印刷されているが、本人が手書きした署名は「渡邉」となっている。現在の人名辞典等では常用漢字で「渡辺」と表記する。〕(わたなべ ひろもと / わたなべ こうき、1848年1月28日(弘化4年12月23日) - 1901年(明治34年)5月24日)は、日本の政治家、官僚、教育者。衆議院および貴族院議員、元老院議官、東京府知事、初代帝国大学総長、学習院次長、太政官法制部主事、駐オーストリア公使、日本建築学会会長等を歴任。1895年(明治28年)11月から死去まで慶應義塾評議員。「工手学校」を創立した。幼名を孝一郎。浩堂と号す。母の名は蔦埜(つたの)。正三位勲一等。 == 経歴 == * 1848年(弘化4年)- 越前府中善光寺通り(現在の越前市)に福井藩士で医者の渡辺静庵の長男として生まれる。 * 1857年(安政4年)- 府中の「立教館」に入学。(10歳)。のち福井の済世館で学ぶ。 * 1864年(元治元年)- 18歳で江戸に出て佐倉の佐藤舜海に師事。福澤諭吉に師事して慶應義塾を卒業後、会津で英学校を開く。戊辰戦争では幕府側として参戦。 * 1870年(明治3年)- 外務省大録(議長級)として出仕。 * 1871年(明治4年)- 岩倉使節団に随行(22歳)。 * 1874年(明治7年)- 一等書記官に昇進。オーストリア臨時代理公使。 * 1882年(明治15年)- 元老院議官(明治17年(1884年)7月19日まで) * 1885年(明治18年)- 東京府知事着任。 * 1886年(明治19年)- 帝国大学(後の東京帝国大学現東京大学)初代総長(39歳)。 * 1887年(明治20年)- 工手学校(工学院大学の前身)を築地に設立(40歳)。 * 1890年(明治23年)- 駐オーストリア特命全権大使 * 1892年(明治25年)- 両毛鉄道社長(45歳)。品川弥二郎の手引により国民協会創立に参画。第2回衆議院議員総選挙に東京府第2区より出馬し当選。 * 1895年(明治28年)- 慶應義塾評議員 * 1897年(明治30年)- 貴族院議員に勅選。 *1897年(明治30年)12月28日 - 錦鶏間祗候〔『官報』第4350号、明治31年1月4日。〕 * 1900年(明治33年)- 政商・大倉喜八郎の設立した大倉商業学校(東京経済大学の前身)の督長に就任する。 * 1901年(明治34年)- 死去 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「渡辺洪基」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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