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渡辺 清(わたなべ きよし、天保6年3月15日(1835年4月12日) - 明治37年(1904年)12月30日)は、日本の武士(大村藩士)、官僚、政治家。名は武勝、通称は清左衛門、号は東山。 福岡県令、元老院議官、貴族院議員、福島県知事を歴任。爵位は男爵。 == 経歴 == 肥前国大村に大村藩士・渡辺巌の長男として生まれる。弟の渡辺昇とともに明治維新の志士として活動した。 江戸城総攻撃予定日の前日に、英国公使ハリー・パークスと会見し、パークスが江戸攻撃には反対である旨を西郷隆盛に伝えた(江戸開城)。 戊辰戦争では、東征軍監、奥羽追討総督参謀として従軍し、磐城の戦いなどに参戦。その功により明治2年(1869年)6月2日に賞典禄450石を受けた〔『太政官日誌』明治2年第61号 (東京城第24、賞典1)。〕。続いて6月10日には三陸巡察使付属と磐城巡察使付属を兼ねた〔「久我通久ヲ以テ三陸巡察使トシ渡辺清左衛門ヲ附属ト為ス 」『太政類典』第1編(慶応3年から明治4年)第30巻(官規・任免6)、113。〕。同年中に巡察使が按察使に変更され、さらに按察使府が設けられると渡辺は三陸両羽磐城按察使府の判官となった〔西岡香織「維新後の奥羽按察使と仙台藩について」9頁。〕。 明治に入り政府に出仕。徴士民部官権判事、同権大丞、民部大丞、厳原県権知事、大蔵大丞などを歴任。明治7年(1874年)9月、福岡県令となり、同14年(1881年)7月まで務め、退任後に元老院議官に就任。 明治20年(1887年)5月、戊辰戦争の功により男爵を叙爵した。明治23年(1890年)7月、貴族院男爵議員に選出され死去するまで在任した。同年10月20日、錦鶏間祗候となる〔『官報』第2195号、明治23年10月22日。〕。 明治24年(1891年)6月、福島県知事に就任し、同25年(1892年)8月に退任した。 その他、高等法院予備裁判官などを務めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「渡辺清 (政治家)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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