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渡邉 衡三(わたなべ こうぞう、1942年(昭和17年)9月24日 - )〔『ネオ・ヒストリックArchives NISSAN SKYLINE R33/R34』 2009年8月26日 ネコ・パブリッシング刊 ISBN 978-4-7770-0877-3〕は、日本の自動車技術者で、日産自動車の9代目スカイライン(R33型)と、10代目スカイライン(R34型)の開発責任者(主管)である。 == 経歴 == === 日産への就職、レース車のサスペンション設計 === 大阪府出身。東京大学工学部機械工学科(船舶機械工学を学ぶ)を卒業後、修士課程(修論は自動車工学)を経て、1967年(昭和42年)4月、日産自動車のプリンス事業部への就職を希望し、入社。(前年の8月に、プリンス自動車工業は日産に吸収合併されていた。)〔日産:スカイラインにかける開発者の想い|スカイラインにかける開発者の想い|渡邉 衡三(日産公式サイト) 〕 大学時代には、1963年(昭和38年)の第1回日本グランプリを観戦し、プリンス車が惨敗するところも見、さらに就職の前月には、欧州でF1も観戦した。〔SEIBIDO MOOK 『日本の名車 スカイラインGT-R PGC10からR33まで、歴代GT-Rのすべて』 1997年7月10日 成美堂出版刊 ISBN 4-415-09239-X〕 元々ブラバム等のレーシングカー設計会社への就職が夢だった事もあり、日本でレースを積極的にやっている会社はどこかと考えた時、ではR380でレース活動を行っている日産のプリンス事業部をと希望し、希望が叶った。〔サクラムック21 『最強のスカイライン物語』 1997年7月10日 笠倉出版刊 ISBN 4-7730-0821-0〕 配属先はプリンス事業部(荻窪)の第一車両設計部第二車両設計課であった。 そこの部署の二人いる課長の一人が桜井眞一郎であり、その下で主任としてシャシー関係のとりまとめをしていたのが、後に渡邉の前任者として将来、8代目スカイライン(R32型)の開発責任者(主管)を務める事になる伊藤修令であった。〔サクラムック21 『最強のスカイライン物語』 1997年7月10日 笠倉出版刊 ISBN 4-7730-0821-0〕 桜井に「レース車の設計をやりたいのですが」と話したところ、「きみ、まず生産車を勉強してからじゃなきゃ、レース車なんて造れるわけないよ」と言われたという。〔サクラムック21 『最強のスカイライン物語』 1997年7月10日 笠倉出版刊 ISBN 4-7730-0821-0〕 とは言え、3代目スカイライン(ハコスカ)のGT-Rのレース車用サスペンションの設計等も、徐々に任されるようになり、R381やR382のサスペンションの設計にも関与した。〔日産:スカイラインにかける開発者の想い|スカイラインにかける開発者の想い|渡邉 衡三(日産公式サイト) 〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「渡邉衡三」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kozo Watanabe (engineer) 」があります。 スポンサード リンク
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