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温 宗尭(おん そうぎょう)は、清末、中華民国の政治家・外交官。清末には変法派の一員であった。中華民国が成立して後に、孫文(孫中山)らの護法軍政府の一員として活動する。さらに、親日政権である中華民国維新政府や南京国民政府(汪兆銘政権)の首脳となった。字は欽甫。 == 事績 == === 清末の活動 === 香港官弁中央書院に入学して、この時に孫文と校友になっている。〔この節は、邵(2005)の記述に主による。''Who's Who in China 3rd ed.'' の記述は、事件の発生年や発生順等につき邵と異同が大きい。〕1895年(光緒21年)、興中会に参加し、革命派に傾倒していく。1897年(光緒23年)、天津北洋大学堂で学び、修了後に皇仁書院(香港官弁中央書院の改称)で英語教師となる。その後、英国通商条約委員馮克伊の秘書をつとめた。〔邵(2005)、718頁。〕〔徐主編(2007)、2072頁。〕〔劉国銘主編(2005)、2163頁。〕〔東亜問題調査会編(1941)、26頁。〕 1900年(光緒26年)7月、温宗尭は、変法派の唐才常が組織した自立軍の駐上海外交代表に就任した。同年8月、唐が自立軍の蜂起に失敗して処刑されると、温は南方へ逃れる。その後、両広洋務局局長、広東電話局総弁、広東将弁学堂総弁、江蘇候補道などを歴任した。1904年(光緒30年)、英藏訂約副大臣として、唐紹儀に随従してインドを訪問した。同年8月に帰国し、両広総督岑春煊の下で外交事務を担当した。。〔邵(2005)、718-719頁。〕〔〔〔 1908年(光緒34年)、温宗尭は駐藏参賛大臣に任命され、チベットに清朝代表として駐留した。当時、チベットのダライ・ラマ13世に対してイギリスの影響力が次第に強化されていた。そのため温は、清朝の影響力を回復するために四川省の軍をチベットに駐屯させようと図り、ダライにそれを受諾するよう迫った。しかし、1910年(宣統2年)、ダライは四川軍のチベット入りに反発する形でインドへ向かい、清朝はダライを廃位してしまう。温は事後処理の後に内地へ転任し、両江総督署洋務顧問、外務部参議を歴任した。〔邵(2005)、719-720頁。〕〔〔〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「温宗尭」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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